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あっちこっちから出口へ - 村上春樹『1973年のピンボール』雑感 -

2021年09月20日

書評
村上春樹
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 実はこのブログでは書く題材が見つからないときには村上作品をとりあげるというルールがある。先週も村上春樹作品だったので二週連続でとりあげているわけであるがこれはなかなかピンチである。書く前には書けそうとおもった本がいざ書き出してみるとなにか違うと思い直し結局そのまま放置されている文章の断片がいくつもある。

 今回紹介するのは村上春樹『1973 年のピンボール』(講談社文庫)[以下、「本書」と表記し引用する際には頁数のみ表記する]である。本書は前作『風の歌を聴け』の主人公である「僕」が引き続き登場する続編であり、物語の重要なキャラクターである鼠を中心とした鼠三部作ともいえる一連の作品の二作目にあたる。この作品の特徴としては『風の歌を聴け』にあったスタイリッシュさは鳴りを潜め、のちの村上作品にとって重要なテーマとなる「直子」の存在が仄めかされたりするもののとくに大きな事件もなく物語は終わりを迎えるといったある種地味な作品になっている。とはいえ、タイトルにもあるピンボールをめぐるうストーリーや突然主人公の家に住み着くことになった双子の少女とのやりとり、「僕」が友人と起業した翻訳会社の話が効果的に展開されていて物語に飽きることはなかった。

小説の目的

とはいえ物語は抽象的に進められる。まず提示されるメタファーは「入口と出口」についてだ。

一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない(26 頁)

 以前、『風の歌を聴け』でも論じたように村上にとって文章を書く目的は伝達することにあった。ここで言われている出口はそうした伝達が達成されることであろう。

 もう一つ重要なメタファーとなっているのがピンボールだ。本書でピンボールとは「孤独な消耗(29 頁)」と言われその作業はわれわれをどこに連れて行くこともない。ただリプレイを続けていくこと、ピンボール・ゲームが永劫性を目指しているのだとされる。

ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある(30 頁)

 「入り口と出口」、「ピンボール」への言及からもわかるようにこの小説はある種の出口を求めながら、しかし自己を縮小していくこと、村上の作品によく出てくる表現を用いれば自らをすり減らすことを描く小説である。このように整理するととてもシンプルなテーマではあるけれども本書の内容はそれこそピンボールのようにあっちこっちに話題が飛ぶ。「僕」と双子の奇妙な生活、友人と共同経営している翻訳会社、遠いところにいる鼠の不安、などなど。そのためまずは次の三つのポイントから物語を考えてみよう

傾聴、翻訳、配電盤

 本書の冒頭にて「僕」は知らない土地の話を聞くことを好んでいたことを語る。誰もが「僕」に自分の生まれ故郷を語りたがり、そうした話を聞いて彼はひたすら頷いていた。そして「僕」と友人の仕事は翻訳業であり様々な英語の文章、新聞記事や医療に関するもの、あるいはなんの役に立つかわからないものを翻訳していた。そうした翻訳の営みは「考えるに付け加えることは何もない、というのが我々の如きランクにおける翻訳の優れた点である(34 頁)」と表現される。そして、このように他人の話を傾聴し、他人が読みたいとおもったものをそのまま伝達してきた自分を「僕は空っぽになってしまったような気がした。もう誰にも何も与えることはできないのかもしれない(79 頁)」とも評価している。他人の言葉を聞くことも、他人の言葉を誰か別の他人に伝達することもコミュニケーションとしては十分ではないのだ。こうした「僕」の状況は彼の部屋に取り付けられていた配電盤に関する描写からも明らかにされる。

「配電盤の話をしよう」と僕は言った。「どうも気にかかるんだ」二人は肯いた。「何故死にかけてるんだろう」「いろんなものを吸い込みすぎたのね、きっと」「パンクしちゃったのよ」(90 頁)

 こうしたパンク状態の「僕」の心は出口を見つけられるのだろうか。

ピンボールの憂鬱

 そうした「僕」の心を占めることになったのは学生時代にハマったピンボールの存在だ。彼は学生時代にアルバイトのほとんどをとあるピンボールの台に注ぎ込んでいた。いつの間にかゲームセンターが潰れてしまい、どこかへと消えてしまったピンボールでありながらときには「彼女」とも形容されている。まるで失われた過去を探し求めるように「僕」はピンボールを探し回ることになる。なんだかんだで「僕」は「彼女」と再会を果たすことになるのだが正直なところこの展開が物語においてどのような役割を果たしているのかを理解することは困難である。

 「彼女」との再会はピンボールマニアが探し当ててくれたとあるピンボールマシンの収集家が所有する倉庫にて行われた。そこはかつて養鶏所であったが廃業し、いまは何十台のピンボールが保管されているだけのいわば「墓場」のような場所になっている。「僕」はそこでピンボールをプレイすることなく彼女とただ「対話」するのだ。「僕」と「彼女」の間に共有されているのは「ずっと昔に死んでしまった時間の断片(160 頁)」にすぎない。ここで行われているのは過去との決別であるものの単にネガティブな意味で行われているのではない。いつかずっと先に自分が救われる、そんな出口を未来に見出すことはできるかもしれない。

 本書は雨のシーンが多く全体的に冷たいイメージが多用されるけれども読後感の爽やかさは格別だ。双子に振り回された日々もいつかは終わってしまう。一方でピンボールとの別れは自分をすり減らすことから離れることでもある。そうした希望をもってもいいのではないだろうか。

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