私事であるが初めて読んだ村上春樹作品が今回紹介する『女のいない男たち』である。内容はともかく文体のリズム感が気に入ったのでその後いくつか彼の作品を読んでは「これはよかった」「これはダメだった」を繰り返している。村上作品でも長編は読み終えることができず途中で力尽きてしまうことが多かった一方で、短編集は彼の文体のリズム感が発揮されることもあって比較的読み終えることができるものが多かった。よくわからないけれどなんとなく読み終えることができるというのは村上春樹作品がもつ数少ない美徳の一つなのかもしれない。
というわけで『女のいない男たち』の紹介をしたいのだけれども再読するにはもちろん理由がある。なんと収録されている短編の一つであるドライブ・マイ・カーが映画化されるのである( https://dmc.bitters.co.jp/ )。しかも、主演は西島秀俊である。村上作品の主人公をやるには強すぎる印象がある。運転主役の三浦透子はイメージ通りで村上作品に出てきそうな空気感がある。これも個人的なことなのだがマンガであれ、映像であれ小説の人物に「顔」ができてしまうと再読するのが困難になる。初めて読んだときにできあがったキャラクターのイメージを崩しつつ、映画や漫画を見て「やっぱりこの顔じゃないな」と苦しみながら本を読むことはかなり辛い作業になるからだ。というわけでこの文章もそうした苦労のうえに成立している。
そろそろ本題に入らないといけない。『女のいない男たち』(以下、引用は文春文庫版から行い頁数のみ記す)はタイトル通り付き合っていた女性、あるいは妻を失った男たちの話である。失ったというのも語弊があるかもしれない。不倫、浮気、死別とそれぞれ理由は違うが失ったというよりは女性たちのほうから出ていったというほうが近いかもしれない。なので『女が去ってしまった男たち』ぐらいのほうが内容としては適切かもしれないがあまり響きがよくないので元のタイトルのほうが良いのだろう。驚くべきことなのだが著者の村上自身はこうした「女性に去られてしまった男たち」というモチーフを抱いたことを不思議がっている(10 頁)。あまり彼の作品を読んでいない私でさえもむしろこうしたモチーフは村上春樹作品の本流だとおもっていたので一瞬ジョークではないかと考えたが文章を読むとそれなりにシリアスなのできっとそうなのだろう。
この短編集は 6 つの作品から成り立っており、それぞれ独立した内容になっている。ある作品の人物が別の作品に背景的に登場していたりはするがあまり本質的なことではないだろう。独立しているといっても同じモチーフ(女に去られた男)を共有していることにはかわりないので読者はそうしたモチーフの側面、あるいは断面として各作品を読み説くことはできるだろう。読んでみるとわかるのだが読後の印象もかなり異なる「ドライブ・マイ・カー」や「イエスタデイ」は比較的前向きで明るい印象があるのにたいして「独立器官」や「木野」はかなり暗い気持ちになる。
気分の問題でまずは暗い作品たちから。「独立器官」は金も名誉もある独身中年の整形外科医が結婚を考えずに様々な女性たちと交際しているのだが、あるとき惚れ込んでしまった女性のために苦しむことになる。結末からいうとその惚れ込んでしまった女性は既婚者でありながらその整形外科医を踏み台として金を得たのち夫でも整形外科医でもない第三の男のもとへと行ってしまうのだ。ショックのあまり整形外科医は食べ物も喉を通らなくなり餓死することになる。タイトルの「独立器官」とは整形外科医が語り手の「私」に語った一つの偏見である。つまり、女性は嘘をつくときに表情も声色も変えることなくその良心も痛むことなしに嘘をつけるのだ、と。いわば嘘をつく器官が備わっているのだ。こうした女に去られてしまった心の痛みを「木野」ではまったく異なった角度から描いている。主人公の木野は妻の浮気を目撃してしまったことで離婚を決意し、それまで続けていた仕事も辞めて新しくバーを開くことになる。浮気を目撃したといっても彼の心は穏やかで店もそれなりに上手く行き第二の人生が始まるかと思われた。しかし、客として来ていた女性とセックスをしてしまったことや離婚することになった妻からの謝罪を経て彼の心は動揺しはじめる。そして彼は自分が浮気現場を目撃したときに傷つくべきであったし、それを悲しむべきだったのだと気づくことになる。
上記の二作品は女が去ってしまった男たちの態度を両極端的に描いている。つまり、とても傷つくか、まったく傷つかないでいるか、だ。ただ、どちらの態度も男の側にかなり寄っているという点では共通している。失恋のショックのために餓死することになった男は「独立器官」という偏見を抱くことからもわかるようにそもそも女性に向き合っていなかったようにみえる。そして浮気現場を見たときに傷ついていなかったと思いこんでいた男も自分に関心がないように妻にも関心がなかったのだ。なのでこの二つの作品は正確にいうと「女に向き合わなかった男たち」ということになるであろう。
「ドライブ・マイ・カー」はいわば上記の作品の中間的な位置にある。主人公の家福はそれなりに売れている役者であるが事故を起こしてしまい専属運転手の女性を雇うことになる。家福には亡くなった妻がおり、しかも生前に浮気をしていた。彼はその浮気の理由を、なぜあんな男と妻が寝ていたのかを知りたいとおもっている。そのために浮気相手と仮初の友情を築いてさえいることを運転手の女性に語ったのちに彼女は言うのだった。理由なんてなかったのだと。別にその浮気相手に心惹かれてなんていなかっのだ、と。それを聞いた家福は必要以上に傷つくことも無感動になることもなく沈黙のなか眠りに落ちるのだった。
「理由なんてない」というのはとても大事な態度だと思う。女が去ったことについて抱いている悲しみにふさわしい理由を男が探し求めるのは合理的にみえるがそもそも出発点を間違えているようにもみえる。つまり、そうした理由なるものは自分ではなく女の側にあると想定してしまっているのだ。なのでこの作品の男たちは「女に去されてしまった」というよりは「女とも自分とも向き合っていなかった」男たちなのである。