インターネット、とりわけ Twitter などの普及によって人々が単に情報をシェアするだけでなく、なにかしらのトピックについて論争することも珍しくなくなってきた。人々が議論を行い、互いに知見を深めていくというような理想的な展開になることは少ないけれども、それでも議論が行われそれぞれの考えが表明されていく状況はとてもよいようにおもわれる。しかしながら、同じ議論が何度も行われたり、これまでの論争の蓄積が参照されないまま議論が行われるのは少しもったいないようにおもわれる。そこで今回紹介したいのは滝川裕英編『問いかける法哲学』(法律文化社)である。法哲学というすこし難しそうな単語がタイトルについているものの扱われるテーマは「児童手当は独身者差別か?」「女性専用車両は男性差別か?」といったものであり、インターネットでよくみるものである。ここでは全部を紹介することはできないが、個人的におもしろいとおもったものを紹介しよう。
第四章ではダフ屋、つまりコンサートチケットの転売などを法律や命令で禁止すべきかどうかが論じられる。ではダフ屋を規制すべきであるという立場の人々はどのような主張を行っているのだろうか。本章ではダフ屋がチケットの流通を妨げる、反社会的勢力の資金源になるといった主張を例示しつつ、着目される主体が主催者、ダフ屋、客のどれなのか、そして考慮する点が人なのか、金なのかというマトリクスによって整理される。たとえば、着目される主体が主催者であり、考慮する点が人であるのなら「主催者がチケットを与えたい客に、適切にチケットを与えられないから」というように記述できる。
ところでダフ屋を規制すべきではないという論拠はどのようなものが考えられるであろうか。ここでは着目される主体が客であり、考慮される点が人である主張、つまり「客が、適切にチケットを得られないから」という規制論の根拠について考察される。この主張にたいして「チケットを得るべき客とは誰のことなのか」と本章は問うている。ここで指摘されるのは「差別」の存在である。コンサートのチケットを廃止して、誰でも出入り自由であると想定してみよう。そうすると会場には多くの人が押し寄せ、コンサートを見れない人が多くあらわれるであろう。こうした需要量が供給量を上回っている場面では全員の需要を満たすことが不可能なので、チケットをもっている人だけ参加できるという「差別」が行われるのである。ダフ屋の存在はこうした場面と深いつながりがあるのだ。
するとここで生じている問題は「何を基準として、どのような方法で差別すべきか」ということになる。とはいえ、これはなかなか解決できない問題であると本章は述べている。たとえばダフ屋が介入することによってチケットの値段が高騰し、結果的に金持ちしかチケットを買えず、貧乏人が買えないという差別が発生する。しかし、チケットの価格を抑えて先着順で販売することは多忙な人にたいする差別になってしまう。ところで、「客が、適切にチケットを得られないから」という主張は実のところチケットの分配方法について「支払う金を惜しまない」よりも「列に並ぶ時間を厭わない」が正しいということを前提している。すなわち、チケットを得るべき客の基準について自説がより正しいという主張をおこなっているのである。しかし、こうした基準について「正しい」ものはあるのだろうか。本章では需要が供給を上回っている状態でわれわれの理性の能力の限界を前提とすれば「チケットを得るべき客とは誰か」を適切に定める基準を設定するのは困難であるという。ここから、そもそも平等主義とはなにか、チケットのやりとりが行われる「市場」とは何かというダフ屋規制に限定されない一般的な法哲学の話も論じられている。
もう一つ興味深いトピックとして第七章「同性間の婚姻を法的に認めるべきか?」を紹介しよう。まず指摘されるのは「同性間の婚姻を法的に認めるべき」というリベラル派と「同性間の婚姻を法的に認めるべきではない」という保守派の対立という図式がどれほど有効なのかということだ。というのも、「同性婚の婚姻を法的に認めるべきか?」という問いについては「婚姻とは何か?」「国家が婚姻について法的に制度化するのはなぜか?」といった問題も同時に論じなければならないからである。本章ではサンデルを引用しながら婚姻の目的をめぐる議論が不可欠であることに触れたあとで、国家が婚姻について法的に制度化するのはなぜかが論じられる。たとえば、リバタリアニズムは婚姻の法的制度化について問題提起を行っている。まず、リバタリアニズムが個人の精神的・政治的自由などを最大限尊重する立場であることを示したあとで、リバタリアニズムの立場からすれば政府が特定のライフスタイルを押しつけたり援助したりすることは排除されなければならないことに言及する。興味深いのはリバタリアニズムの立場からすれば「同性間の婚姻を法的に認めるべきか?」という問題は「法律婚という制度そのものの廃止を主張すべき」に置き換えられることになる。つまり、婚姻の私事化を徹底的に推し進めるのである。とはいえ、こうしたリバタリアニズムの立場にも反論がある。たとえばサンデルは同性婚論争の争点は「選択の自由」ではなく「社会制度の目的を果たせるかどうか」ということである。こうしたサンデルの立場はリバタリアニズムとサンデルが属するコミュニタリアニズムの論争と考えることができるであろう。また、リバタリアニズムのように抜本的な主張を行わなくても、存在するものの合理性を尊重しつつ、必要があれば修正を加えるという漸進的な多元主義もありえるからだ。このように婚姻を論じるにあたって法哲学的な背景が自ずと浮かび上がるだけでなく、法哲学の議論が現実にリンクしているということも重要なのである。
本書は法哲学という一見抽象的なものにおもえるものが、現実的なトピックを題材にすることでその意義や実践性が理解できるという点で優れたものである。参考文献の案内も丁寧で充実しており、初学者がさらに学んでいくための手引きにもなっている。また、こうした学問に興味がない人でもインターネットで論争されているテーマについて自分で考えてみたい人が読んでも興味深い体験ができるであろう。おすすめです。