今回紹介するのは御子柴善之『自分で考える勇気 − カント哲学入門』(岩波ジュニア新書)。哲学といえばカントはビックネームであるがその難解さやとっつきにくさもあり、そもそも何を言っているかはそれほど知られていないと個人的には思う哲学者である。しかし、本書はそうしたわかりにくいと思われている哲学者が問おうとした問題設定を明快にしながら説明してくれるのでとても読み進めやすい。かんたんに内容を紹介しよう。
第一章ではカントの生涯と主著である三批判書について紹介される。三批判書がそれぞれかんたんに紹介されているのだが短く簡潔なものである。『純粋理性批判』における「批判(クリティーク)」とは、ギリシア語で「分ける」という意味をもつクリノーに由来している。それゆえ、このタイトルによって示されているのは人間の理性を批判する、つまり人間の理性は何を知ることができ、何を知ることができないのかを分けることにある。カントによればこの「分かる」の範囲は自然現象に限定される。こうした「分かる」の領域を超える問題も存在する。それはわれわれが何をすべきであり、何をすべきではないのかという問題である。つまり、善と悪とを分けることである。こうした問題を扱うのが『実践理性批判』である。この本でメインとなる問題は自由である。というのも、自由がなければ善悪もありえないからだ。ここまであつかった自然と自由の領域をいかにして橋渡しするか、その可能性について論じたのが『判断力批判』である。
第二章では『純粋理性批判』を紹介している。まず指摘されるのは『純粋理性批判』でカントが考えていたことは「普遍性」だということだ。たしかにわれわれは経験によって雨がふれば地面が濡れると考える。しかし、今日の雨だけでなく明日の雨やそれ以外の日の雨も地面を濡らすであろうと考えている。こうした「認識」が必然性、普遍性を持つことが可能だろうか。ここでカントは経験に依存せず普遍性と必然性を持つ認識が可能であることを提示します。それは地動説を提唱したコペルニクスが如く、思考を 180 度転換するものであり、「対象が認識に従うのではなく、認識に対象が従うのだ」という考え方である。たとえば「太陽の熱がアスファルトを温めた」という認識について考えてみよう。これは「太陽の熱」が原因となって、「アスファルトを温めた」という結果があるようにおもえる。しかし、われわれが見ているのは太陽光線に照らされたアスファルトがあるだけであり、「原因と結果」という考えはどこにも見いだせないはずだ。こうした原因と結果の関係を自然現象として生み出しているのは人間の認識の働きなのである。これがカントの発想の転換である。ここからさらにカントは認識のなかにある形式と内容を区別し、普遍的なものを形式に求めていることやわれわれが受動的に感じる「感性」にある空間意識や時間意識にある形式性などが説明される。反対にわれわれが能動的に考える「悟性」や経験に由来しない「原因と結果」の概念などのカテゴリーが紹介される。カントはこのようにしてわれわれの認識能力にある普遍性と必然性をもつ形式を見出すことで認識の普遍性を確保しようとする。ところで、実は考える能力には悟性のほかにも理性がある。たとえば原因結果をさかのぼってひたすら理由を問う能力をカントは「理性」と呼ぶ。これは「感じる」働きを超えるものであるから「純粋理性」と呼ぶ。こうした理性の働きは実を矛盾を引き起こすことがある。一方で理性はあらゆる原因にはさらに原因があると推理していくことで、すべてのものの最初の原因が存在するはずだと考える。他方でまた理性は世界にはそうした自由があるとするのなら原因結果に支配されない出来事が存在することになり、自然科学の世界は混乱することになるということも推論する。こうした理性が引き起こす自己矛盾を「純粋理性の二律背反」と呼ぶ。ではこうした理性の矛盾を解決するにはどうすればいいのか。カントは現象と物それ自体という区別をもちいて現象の世界と物それ自体の世界があるという見解を主張する。現象の世界とは自分の認識能力にもとづいて描かれたものであるので物それ自体の世界ではないので、たとえ現象世界に自由が存在しないのだとしても物それ自体の世界ではそうではないという可能性を確保することができる。このようにしてカントはわれわれの実践にとって重要な自由を確保しようとしたのである。
ではカントにとって善悪の問題とはなんだったのか。これを扱うのが第三章である。まずカントにとって善悪の問題とは意志のあり方を問うことであることが指摘される。ここから意志がある人は自分で決めたことを自分のきまりになること(格率)、そしてここでも石を形式と内容とに分け、意志の形式に普遍性を見出すことが紹介される。カントにとって善悪が生じる場とは意志であり、その格率が普遍的な形式があるかどうかが問題になっているこうした形式そのものが道徳の最上原理としての道徳法則なのである。本書ではこうしたカントの道徳哲学が理想主義的ではないかという論点や道徳と幸福をめぐる問題にも触れている。
第四章では『判断力批判』について論じられる。そもそも判断とはなんだろうか。本書によればカントが『判断力批判』であつかっているのは「富士山がきれい」「この曲いいね」といった人の好みそれぞれかとおもわれるものに関するものである。カントが注意しているのはたとえば夕焼けをみたときの美しさのような美の経験に見いだされる性質である。とくに重要なのはその対象との出会いが利害関心とは無関係だということだ。だからこそ美的判断には普遍性、つまり誰にでもあてはまるような性質がある。このようにわれわれが利害関心から自由になれる状態がありえるということはこの世界で普遍的な道徳性を実現する可能性があることを示唆している。
第五章では今までの抽象的な理念とは反対にカントがこの世界についてどのように考えていたかを説明している。ここで語られるカントは国家や平和のあり方について論じ、道徳面でも形式だけでなく具体的な内容について踏み込んでいたりと興味深い側面を見せてくれる。
以上が概要である。本書はカント哲学の主要な思考を必要かつ簡潔なスタイルで紹介してくれる素晴らしい一冊である。また、タイトルにある「自分で考える勇気」という言葉も印象深い。カントの思想は複雑で抽象的ではあるものの、一度でいいから自分の力で考えることの大事さを教えてくれる。その意味で本書はあらゆる人々におすすめなのである。