道徳的な正しさや不正について考えてみるとうんざりすることがある。「これこれするのは正しい」からすべきであるとか、「これこれするのは不正である」からすべきではないなども胡散臭いものがある。こうした反感をおぼえてしまうのはそれが単に綺麗事であるからというだけではなく、なにかわれわれの生活からは離れた抽象的で権利的な概念であるからではないか。われわれの周囲を見渡してみるといい人も悪い人もいる。彼ら・彼女らがそのようにみえるのはなにかの理念に合致している、あるいは反しているからなのだろうか。もっとわれわれの生活感覚に根付いた良さとか悪さというものがあるのではないだろうか。
今回紹介するアナス『徳は知なり』(春秋社)(以下、本書と表記し、引用する際には頁数のみ記す)はわれわれの身近なとこから語りかけてくれる倫理学の本だ。倫理学のなかでも規範倫理学といわれる分野には代表的な三つの立場がある。ある行為に関して道徳的な善悪を判定する際に(i)行為の帰結が重要となる帰結主義(功利主義)、(ii)行為の動機を重視する義務論、そして(iii)行為者の性格に着目する徳倫理である。この教科書的な分類が適切であるかは専門家に任せるとして、この三つの立場のなかでは本書は(iii)徳倫理に関するものとなっている。倫理学のなかでも徳倫理は最近注目されている立場であり、その証拠として『徳倫理学基本論文集』や『ケンブリッジコンパニオン徳倫理』といった論文集が出版されるなどしている。また、ハーストハウス『徳倫理について』、フット『人間にとって善とは何か』といった徳倫理の専門家の著書も翻訳されておりその期待度の高さをうかがい知ることができる。こうした徳倫理への注目は上記の三つの立場のうちの残り二つである帰結主義(功利主義)や義務論への反感から生じているという見方もある。功利主義が唱えるような効用を目指すような人間観や義務論が指示するような義務をひたすら守るという人間観はどうもわれわれの経験や直観に訴えるにはあまりにも抽象的であったり、理念的すぎるからだ。反対に徳倫理にあらわれる「勇敢さ」、「親切さ」といった用語で示される人間観は日常的な親しみがある。しかし、徳倫理もそれほど万能なわけではない。「徳(virtue)」という単語が醸し出す保守的で共同体的なイメージは現代のリベラルな空気とは合わないものがあり、また現代の徳倫理の専門家が引き合いに出すアリストテレスは奴隷や女性差別を認めてさえいる。このように徳を前面に押し出す倫理理論は閉鎖的で時代錯誤であると思われるかもしれない。
本書の著者であるアナスは上記のような問題点に気づきつつも徳について語ろうとする。アナスは過去に様々な徳理論が登場してきたけれども、それでもあえて徳そのものについて語ることは意義があることだとしている(3 頁)。まず第一の理由として現在まで様々な徳理論があり、それらが互いに論争しているときにわかることであるが「徳とはそもそもなんであるか」についての共通理解が存在しないことがあげられる(3 頁)。第二の理由は本書が提示する徳の説明は従来にないオリジナリティがあるからだ。アナスによるとピアノ演奏のような技能を発揮する人に見いだされる推論と徳を発揮するために行われる目的を果たすための実践的推論とには類似点があるのだという(4 頁)。一見すると有徳な人とピアノ演奏家にいったいどんな類似点があるのかわかりにくいかもしれない。周囲の人に親切にし、人助けを行う寛大な人とショパンを華麗に弾きこなすプロのピアニストがそもそも頭の中でつながりにくい。
アナスによれば有徳な人の実践的推論と技能を発揮する人の実践的推論の類似点は次のようになっている。まず、アナスが指摘するように徳は習得するのに長い時間を必要とする(22 頁)。思いやりや親切心は一朝一夕で習得できるものではない。親や学校での教育を通じて手本を見せられたり、実際に親切にしたりすることトライ・アンド・エラーを繰り返していくことで習熟していくのである。このように考えると徳とは機械的に反応することであるとおもわれるかもしれない。つまり、「困っている人がいたら親切にするという」規則を教え込まれ、その状況に出くわしたのなら頭で考えるのではなく体が勝手に反応してしまうといったものが目指すべきことである、と(23 頁)。しかし、アナスによればそうではない。たとえば、プロのテニス選手が試合中に見せる戦略は練習と習熟の賜であるが、頭を使わずになされることではない。同じように勇敢さは救助にすぐ向かうだけではなく、周りの状況を注意深く観察し、評価することによって示されることもあるからだ。このように決まりきった反応だけではなく、能動的で知的な取り組みを伴った実践面での発達も有徳であるためには必要なのだ(26 頁)。
以上が本書の中心的となる主張であるが、有徳になるには長い時間をかければよいだけではなく、自分から積極的に動かないといけない。受け身の立場ではダメなのだ。アナスも次のように言っている。
命じられたことをただ行うだけでは、ここで近道をする(少なくとも、正しい場所に向かって近道をする)ことにはならない。本書のような徳の説明を用いる倫理学理論は、そのような近道をしないことによって、私たちを大人のように扱いながら、私たちに指針を与えるのである。(87 頁)
もしかしたら、ここから一般的な教訓も引き出せるかもしれない。冒頭でみたような正しさや不正に対する反発について考えてみよう。道徳的問題に自ら能動的に、積極的に取り組むことができるのならば、われわれは正しさや不正とは違う仕方で道徳的問題に取り組むことができるかもしれないという可能性があるかもしれない。もちろん、試行錯誤の末に失敗したり、恥をかいたりするかもしれない。だが、そうした失敗や恥ずかしさを経験して成長するのが大人になるってことはのではないか。本書は学術的な興味がある人だけではなく、向上心があり前向きに生きようとするすべての人々、すなわち大人に読んでほしい一冊である。