哲学の難しいところは「なんとなくでいいから哲学のことを知りたい」と思うときになかなかその願望に見合うような本がないことである。これは哲学書というものがだいたい長いものであるという事情もあるし、新書や文庫でもだいたいひとつのことがテーマとなっており、たしかに最初から知りたいことが明確な場合はいいけれども、「なんとなく知りたい」というときにはなかなか不便である
そこで今回紹介したいのは信原幸弘編『ワードマップ 心の哲学 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』(新曜社)である。本書の特徴として「二元論」「意識のハードプロブレム」というように「心の哲学」と言われる分野における重要な概念ごとに解説を行ってくれることである。こうした小辞典のような構成になっていることで読者はまずは目次を見ながら興味深い、おもしろいとおもうような単語を見つけ、そこから本文を読むという使い方もできる。他方で本書は完全に辞書的な構成になっているのではなく、前から通読することができるように各項目がゆるやかにつながっているため解説書としても読むことが可能だ。まずは本書の内容についてかんたんに紹介する。
第一部では心と身体の関係について論じる心身問題がメインになる。心と身体についてまず考えられるのが精神と物質の違いを重視し、一方から他方へと還元する可能性を否定する「二元論」である。しかし、このように世界を構成する原理を二つに分裂させる議論は単純さにおいて他の理論に劣るものである。現在ではこのような厳格な二元論は採用されず、心もふくめてあらゆる事実は物理的事実が決定されれば確定するという物理主義の立場が主流となっている。この立場では痛みのような心的性質は脳における神経生理学的性質によって可能になる自然的性質であり、独立した心的実体ではない。このようにして物的一元論を採用しつつも、心的性質と物的性質の違いを認める性質二元論という立場も可能なのだ。他方で心的性質を物的性質によってすべて説明する「還元主義」という立場も反論としてありえるし、逆に心的性質にすべてを還元させて説明する「観念論」という立場もあり得るのだ。心身問題は哲学だけの問題ではなく、認知科学や進化論の影響なども受けて論じられる。たとえば「目的論的機能主義」などは X が Y することによって進化の歴史の中で自然的に選択されてきたという歴史をもつとき、X が Y するという機能をもつという目的論的機能という考え方を援用しながら、心的状態を目的論的機能によって定義しようとする。もちろん、本書でこうした議論が決着されることはなく議論の応酬を追っていく内容になっているのだが、参考文献なども多く紹介されており、お気に入りの立場を見つけたのならわれわれはそこからさらに深く勉強することが可能となっている。
第二部では心の特徴とされる「志向性」や近年注目されている「意識」などが紹介されている。「志向性」とはわれわれの心はなにかに向けられているということを意味している。また「何かについて」とも表現されるように心が志向的であるとは、何かについての状態であるということなのだ。こうした志向性は単なる表象とは異なるものとして考えられており、この志向性が物理主義のもとではどのように自然化、つまり自然科学的な見地で説明されるのかが重要な問題になっており、たとえば「生物的意味論」が注目されている。この立場も含む「自然主義的意味論」では、心的表象の存在を仮定したうえで、その表彰内容がどのように決定されるかを志向性を用いずに物理主義的に許容される概念だけを用いて説明しようとする。目的論的意味論は生物的な目的論的機能の概念に訴えており、ミリカンという哲学者の立場はとくに生物的意味論とよばれている。こうした議論は心的表象を生み出すメカニズムに注目するか、その心的表象を利用するメカニズムに注目するかによって大きく異なることになる。こうした志向性の問題に加えて、「意識のハードプロブレム」の問題も紹介されている。自然科学の発展によって生命の複雑なシステムが明らかになってきているが、こうした自然化が困難であるとおもわれるのが心である。たとえばチャーマーズは意識的経験に固有の因果論的機能は自然化されるけれども、意識的経験にある固有のクオリア、現象的意識は自然化が困難であるという。こうした意識をめぐる哲学的な問題は単に哲学に限定されるだけでなく、意識に関する経験的理論としての一面ももっている。「意識の高階説」は認知科学者のラウも支持しており、様々な実験も行われていることが紹介されている。
第三部はバラエティに富んだ内容になっている。「予測誤差最小化理論」や「他者理解」や「精神疾患」、「妄想」などわれわれの心についての様々な側面が紹介されている。ここではさきほどまでの議論の応酬では表現されないような心の機微のようなものが描かれており、とても興味深い。まさに「心の哲学」の豊かさが第三部の醍醐味とも言えるであろう。
以上が概要である。このように本書は現代の「心の哲学」全体を見渡すのに十分な役割を果たしているとおもわれる。しかしながら、もちろん問題がある。というのも、各項目が項目ごとに独立した内容になっているため、通読していると記述が重なる箇所があったり、現在読んでいる内容に関連するところが別の項目に飛ばされているなどといった問題がある。また項目ごとに与えられている紙幅が短いというのもあってか、もうすこしこの議論がどうなっているかを知りたいという!ところで記述が終わっているのも残念ではある。とはいえ、非常に抽象的でわかりにくい分野において、本書のような「地図」があることはとてもありがたい。気になったところからさっと読んで楽しむのにおすすめである。