「進化」という概念はとても理解しにくいものである。それは「進歩」や「進展」などと結び付けられやすいという事情もあれば、とりわけ人間を進化の観点から語ること自体がタブーのような空気さえある。他方でわれわれが進化によって生じてきたホモ・サピエンスであることはそれなりに認められる以上、きちんと向き合わなければならないのも事実であろう。
そうした進化について考えるために、今回紹介するのは長谷川ら『進化と人間行動』(第二版)(東京大学出版会)である。本書は20年前に出版された『進化と人間行動』をアップデートするものであり、この20年の間に得られた様々な知見も取り入れられている。まずは本書の内容について見ていこう。本書は、第一部「進化とは何か」、第二部「生物としてのヒト」、第三部「心と行動の進化」の三部構成になっている。
第一部ではまず、人間とは何かという問題が紹介される。この問題は哲学者や科学者によって盛んに議論されたもののちゃんとした答えはそうかんたんに出るものではない。ここで指摘されるのはヒトは生物であるという事実である。するとヒトが進化の産物であることや適応的な進化の過程によって形作られてきたことになり、進化理論がヒトの行動や心を理解するのに不可欠であるということがわかる。他方で遺伝を強調することは遺伝決定論やそれに関する差別なども引き起こしてきたこと、進化理論への誤解を通じて社会的ダーウィニズムが生じてきたという負の点も指摘される(第一章)。そのため本書では進化理論を重要視しながらも、差別などに関する問題が生じる可能性がある場合には適切に注意がなされている。では、そもそも進化理論とはなんだろうか。進化の定義が説明されたのちに本書はダーウィンの自然淘汰の理論を紹介する。この理論は次の三つから成り立っている。まず、集団の中に様々な形質を持つ個体が存在するという「変異」、次に変異が個体の生存や繁殖に影響を及ぼす「淘汰」、そして親の形質が子に伝わる「遺伝」である。この三つの条件がそろうとたとえば鳥では長い羽の個体が短い羽の個体よりも多くの子をのこせるので、長い羽をコードする遺伝子頻度が親世代よりも増える。これが進化なのである。また、鳥の長い羽は生存や繁殖に有利な形質であるが、環境が異なれば短い羽をもって小回りがきくほうが有利であったりする。このように適合した形質のことを「適応的形質」と呼ぶ(第二章)。第三章ではダーウィーンが進化理論のアイデアを思いついた当時ではまだ未知の領域であった遺伝学、分子進化学が詳細に論じられる。おそらく本書のなかでも一番の難所であろう。第四章では「種の保存」という誤解がなぜ生じてしまうかが論じられる。ここで注目されるのは「レミングの自殺」という伝承である。レミングというネズミはツンドラに住んでいるのだが、集団で崖から飛び降りて海に転落するという集団自殺のような現象が記録されており、増えすぎた密度をコントロールするための行動であるという誤解が生じていたのである。このような自らの種を守るという群淘汰とあくまで個体間の適応度の差に由来する個体淘汰との論争がこの章でのメインである。
続く第二部に目を向けてみよう。第五章では霊長類の進化について論じられる。たとえば進化を論じる際に「ヒトはサルから進化した」などと言われたりする。しかしながら、本章で指摘されるように分子系統進化学の発展の結果、チンパンジーとヒトが 600 から 700 万年ほどまえに共通の祖先から分岐したと考えられていることが紹介されている。つまり、チンパンジーはヒトの祖先と同じではないし、チンパンジーが進化すればヒトになるわけでもないのです。本章では他にもなぜ霊長類は大きな脳をもつのかといったヒトを含む霊長類の特徴について詳細に説明している。第六章ではヒトに的を絞った進化の説明が行われる。本章では馬場『私たちはどこから来たのか』を参照しながら、犬歯の退化、直立二足歩行の進化、休止の発達と退化、大脳の発達の四点から人類進化全体が論じられる。第七章では個体が生まれてから死ぬまでの時間がどのように経過し、自己の成長や繁殖にどのようなエネルギーを分配するかが説明される。ヒトに特徴となっているのは脳の大きさである。そしてそれを維持するにはかなりのエネルギーが必要となるのでヒトの出産や離乳時期、思春期の長さなどに影響を及ぼしているのである。第八章から第十一章にかけては進化におけるわれわれの協力関係やオスとメスの性淘汰について紹介される。進化心理学やゲーム理論の話など本書のなかでも興味深い箇所である。われわれが他人と協力する場面や恋愛の場面においても進化的観点が関わっているというのはおもしろいと同時になかなか受け入れがたいものでもある。
第三部では心の進化や文化進化などが紹介される。第十二章ではヒトの心の進化を解明するには他の動物種との比較研究や、人類学・考古学との共同などのアプローチが存在することが論じられ、第十三章では文化という人間特有の環境がわれわれの進化にどのような影響を及ぼすと想定されるかが紹介される。まだまだ新しい分野であるが、個人的にはとてもおもしろいところだった。
以上が概要である。本書は進化という現代でもわかりにくい概念について様々な角度から解説してくれる良書である。こうした進化をテーマにした本は人間の偽善を暴いたり、男女の複雑なドロドロしたものを暴露しようとする傾向があるが本書はあくまで教科書的に淡々と、しかしおもしろく語ってくれる。進化に関して学びたいときには最初の一冊としておすすめである。