倫理や道徳について考える学問の一つに倫理学という分野がある。古くはアリストテレスからはじまる学問分野であるが、技術の発展などにより生命倫理、ロボット倫理なども含むような古くて新しい学問分野である。最近は倫理学の本が流行っているのか入門書もたくさん書かれるようになった。倫理学の分野のなかでも有名な功利主義にしぼった入門書や、比較的最新の分野であるメタ倫理を題材とした入門書も出版されることによって倫理学という学問における最新の知見が世に広まることはとてもよいことであろう。
とはいえ倫理学というのはもっと豊かな内容をもっていたのではないか。そう考えてしまうことはある。たしかに現代の倫理学は分析哲学のスタイルや科学的な知見を得ることによってより学問らしくなろうとしている。しかしながら、倫理というのは人間にとって当たり前のようでわかりにくくときには悩みながら人生を生きていくようなそんな生々しさ、学問としての拾いにくさみたいなものも併せ持っているのではないか。そのように考えてしまうのである。
今回紹介する品川哲彦『倫理学入門』(中公新書)はそうした意味ではとても豊かな倫理学の入門書であるように思われる。本書は「アリストテレスから生殖技術、AI」という副題からわかるように幅広いジャンルを扱っているだけでなく、近年の倫理学の入門書では触れられないようなトピックも扱っている良書である。以下で、かんたんに内容を紹介する。
第一章では倫理という言葉の輪郭を描いている。まず述べられているのは倫理と道徳の区別である。本書ではまず道徳を人々が一緒に生きていくための行動規範として考え、倫理を本人の生き方に関わるものとして提示している。そしてこの二つの考え方は重なり合う。よいひととは両方の要素を兼ね備えた人であると考えられるからだ。それゆえ本書では両者の違いを明確に示す場合を覗いては同じ意味で扱っている。では倫理、道徳とは他のものとは何がちがうのだろうか。「なになにすべきだ」というような倫理的な判断が他の事実判断、たとえば世界にある事実であるとか科学的事実とは異なる点は現実を認識するのではなく、現実を変えようとする点、そしてその判断が普遍妥当性を要求していることが強調されていることにある。では、こうした倫理的判断が対立するときにはどうなるであろう。ここで登場するのが倫理学的なものの見方である。どちらの主張がどれほど説得力をもつのか、理由をめぐる争いが生じるのである。本章では規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学というおなじみの分類が続く。本書の独自な点として倫理を法、政治、経済、宗教などといったいどのような点が異なるのかを論じているところが挙げられる。かんたんにまとめるならば倫理は法、政治、経済よりも抽象的な次元で展開される規範理論である。宗教との違いについては個人的な倫理では姿を消すけれども、共同体の道徳の話では無視できない影響があることが論じられる。
第二章では倫理学における代表的な理論が紹介される。興味深いのは義務倫理学、功利主義、徳倫理だけでなく社会契約論や共感理論といったあまり倫理学の文脈では紹介されにくいアプローチも含まれることだ。それゆえ本章では政治哲学で紹介されることが多いロック、ホッブズ、ロールズといった哲学者も紹介されることになる。本章での各哲学者、各理論の紹介はとてもわかりやすいものになっており、図で紹介されるフローチャートも理解を助けてくれる。数ある倫理学の入門書のなかでもっともわかりやすいのではないかと評者は考えている。
第三章からは具体的な倫理的諸問題がとりあげられることになる。本章では大きく分けて市場、国家、戦争が論じられることになる。市場は人間が互いに協力し、足りないものを補う場であると同時に弱肉強食という過酷な競争が行われている。こうした傾向はグローバリゼーションのもとにさらに加速してきたと本書は考えている。ここには市場原理を是とするリバタリアニズムと地域の住民の暮らしを大事にする共同体主義の対立が予想されるが、現実社会ではこの二つは合体する傾向にあり、それは移民や海外の労働者を国に帰属させながら国の経済成長はグローバリゼーションのなかで勝ち残ることでしか達成されないという事態から生じているのである。こうした状況のなかでも倫理は普遍妥当性を要求する。たとえば功利主義的な幸福の増大や不幸の減少、ケア倫理による自分化に限定されないケアのネットワークの展開などが考えられるであろう。他にも国家による再分配はどのようにすべきか、戦争責任がどのように果たされるかといった問題も論じられる。
第四章では人間の身体に関わる医療問題と倫理について紹介される。本章の議論は独特だ。具体的なケースや医学的見地を重視するのではなく、身体や他者といった概念を過去の哲学者、たとえばフッサールやヨナスの思想から考えるアプローチが重視されているように思われる。具体的な問題を扱いながらも抽象的な分析が続くので個人的には難易度はとても高いものであった。
第五章では環境倫理、動物倫理、ロボット倫理のような応用倫理学が説明される。本章で特徴的なのは終盤にて行われる「星界からの客人との対話」と題された対話篇であろう。そこでは人間よりも高い技術をもった宇宙人が地球に訪れ、人類がこの地球という星やそこに住む生き物をどうあつかっているのかについて対話を行うのだ。とても力の入った対話篇であり、おそらく著者がこういう SF が好きであることが伺える。
第六章では「審級」という概念を法学的な用語から借用しながら議論を進めている。こうした比喩を行うのは倫理的配慮が拡大するにつれて「審級」もあらたに設定されるからだ。今まではひととひとに限定されると思われていた倫理が人とまだ生まれていない世代、人と動物、環境、人とロボットというように配慮の対象が拡大することによって従来の倫理の枠組みでは扱いきれないという事態が生じている。ここで重要なのは倫理的な観点がどこからくるのかということである。本書では「私が自分のありようを気にかけて、自分がそうでありたいありようをみずから思い描いて、その実現を目指して生きるものだ(262頁)」ということに由来すると考えている。そしてそのためには自分とは異なる相手の見方に立つこと、他人の声に耳を傾けることの重要さもあわせて指摘されている。
以上が本書の概要である。このように本書は倫理にまつわる問題を広範に論じており、まさに入門書といえる内容になっている。もちろん、問題もないわけではない。本書はあまりにも多くのトピックを扱っているためその深堀りがなされていないように思える。この点は紙幅の関係もあるだろうが今後の読書案内を設けるなどしてほしかった。また前半で非常にオリジナリティのある分類や概念整理を行っていながらもそれが後半の議論にどうつながるのかも見えづらいものになっている。しかし、本書は倫理学という学問がもっている豊かさというものを知るうえでは最適であると思われる。倫理学という学問が味気ないものではないということを教えてくれる素晴らしい一冊である。