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エッセイの軽快な難しさ - 村上春樹・安西水丸『村上朝日堂』(新潮文庫)雑感 -

2022年07月18日

書評
村上春樹
安西水丸
4101001324

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 エッセイの難しさは次の二つを両立させることの難しさにある。一つは気楽に読めることであり、もう一つは含蓄なり、教訓を付け加えなければならないことだ。気楽に読める文章はその文や単語の優しさだけでなく、文体の軽快さや話題があまり重くならないことなどいくつかのことを考えなければならない。そうした「軽さ」を維持しつつも、いやそういう「軽さ」を偽装しつつも、エッセイというのは落語のオチのような教訓めいたことを言わねばならない。そういうお約束があるようにおもえる。

 今回紹介する村上春樹・安西水丸『村上朝日堂』(新潮文庫)はそうしたエッセイにたいする思い込みを打破するような素晴らしいエッセイ集ともいえるし、もしかしたらエッセイではないかもしれないという不思議な本である。この本の良さはまずそのオチのなさである。いくつかオチのあるものも存在するが大半は本当にどうでもいいような、けれど生活の匂いがする軽い文章である。もう一つのよさは安西水丸によるイラストであろう。そのイラストの魅力はゆるい人間や動物の描写にもあるが村上の文章の内容とあまりマッチしておらず挿絵として成立していないというズレがなんともおもしろい。

 扱う内容も様々である。日常の生活のことでいえば食事や引っ越し、猫のこと、小説家として文章論や作家論について語ることもあるがまぁどれも真剣な感じではない。現代風に言うと「ゆるい」のであるが、他方で生活に根を張った安定感というのもある。とても不思議だ。村上春樹というとどうも誤解されているのかどこか生活のない男がよくわからない仕事をして女性とセックスしてパスタを茹でるというイメージが強い。このイメージはだいたいそうなんだけれど、それだけではないというかそういう生活に至る理由も村上春樹はちゃんと書いているように思える。たぶん。

 話がずれてきたので本題に戻そう。いくつかおすすめのエッセイを取り上げながら内容を見ていこう。

 「文章の書き方」というエッセイは短いけれども、村上なりの文章論が十分に伝わってくる文章である。彼によれば文章は技術や小手先でなんとかなる段階があるが、やはりそこで自分なりの生き方をしないとなかなかその先へと進めないそうなのだ。なのでとりあえず生きることが先、文章を書くことが後というのはこうして文章を書いている現在の自分にとっても勇気がもらえるものである。もちろん現在ではライティングというのは独立した技術として大学でもちゃんと教えられるようになっており、こうした「生き方が自分なりの文章を形作る」というのは時代遅れかもしれない。他方で「文章を書くこと」それ自体が自分の生き方とどう関わるかというのは技術の問題ではないし、まさに生き方の問題であるといえよう。「文章なんてわざわざ書く必要もないや」と思えばそれは最高にハッピー(35 頁)」なのである。

 村上春樹といえば食事の描写が美味しそうに見えるというのがあるが本書でも「豆腐」について書かれた連作エッセイはどれもとてもおもしろい。豆腐について語っている点でこの四つはどれも豆腐エッセイなのだがその方向性がそれぞれ異なるのだ。ひとつめのエッセイではイラスト担当の安西を困らせるという意図で豆腐を題材にしている。続く二つ目のエッセイでも同様の意図があるのだが、豆腐の食事論もあっておもしろい。豆腐が大好きなので主食にしていることや豆腐をたべるためには近所に豆腐屋があることが大事であるなどだんだん豆腐に向き合っている。三つ目のエッセイでは豆腐と生活のあり方という論点へと移り話はさらに真面目になっていく。村上によれば豆腐とはパリの主夫が食事のたびにパン屋で買い、余れば捨ててしまう(本当?)と同じく、店で買ったばかりのものを買うのが食事としてただしいのである。こうした村上の豆腐観は「たかが豆腐」であるというあり方に行き着く。つまり京都の観光であるようなコースで五千円する豆腐料理ではなく、日常の生活のなかの食事としての豆腐が豆腐のあり方なのだと。四つ目のエッセイでは豆腐を食べるのはいつがいいのかという話になり、それはセックスのあとだといういつもどおりの村上春樹のスタイルになっている。

 さてこうした悪戯心からはじまった豆腐の話が食事論、生活論、セックス論などへと飛躍する様子はとてもおもしろい。エッセイの醍醐味はまさにこうした偶然的、連想的な飛躍にあると感じさせる。エッセイの軽やかさは単に文章や文体の軽さだけでなく話題もテーマもスタイルも軽やかに変化していく一連の流れにあるのかもしれない。

 もう一つ本書から得られる教訓はエッセイで教訓を主張したり、オチをつけたりすることはあまりよくないということだ。エッセイという文体は思いの外、読者の側に「この文章はいったいなんだったのだろうか」という感想を強いるものである。それに加えて書き手の側ががんばってオチをつけようとすると二重の強要が発生してしまうことになる。それゆえエッセイではむしろ読者の側がからなにかを引きだすように書くことが求められることになる。

 村上春樹のエッセイの魅力はそのエッセイの題材が彼の生活に根付いていること、そしてエッセイの主張が個人の枠内にとどまっているという点にある。こうした限定こそがエッセイという文体の軽やかさが軽すぎないように、しかし飛躍はゆるされるほどのつながりを形成する。読むと文章が書きたくなる。そんなエッセイ集である。

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