「議論では感情的になってはいけない」、「感情は気まぐれなので信用できない」といった感情のイメージはとても根強い。なにかを論じたり語ったりする場合にはとりわけそういう態度が要請されることになる。たしかにわれわれはエビデンスやきちんとした手続きに基づいて物事を論じたり、決定したりすべきなのかもしれない。とはいえ、感情それ自体が議論の対象にならないわけではないし、感情というものがわれわれの生活に強く根付いていることは確かである。では、そうした感情を論じるにはどうすればいいのか。
今回紹介したいのは源河亨(2021)『感情の哲学入門講義』慶應義塾大学出版会である(以下、本書と表記し、引用する際には頁数のみ記す)。著者は『悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学(2019)』、『知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用(2017)』などを執筆しており、心の哲学の研究で知られている。本書は上記のような専門書とは異なり、入門書として書かれており予備知識なしに読むことができる。簡単に本書の概要を紹介しておこう。本書は 15 講から成り立っており著者が大学で行った講義を意識した構成になっている。第 1 講はガイダンスとなっており本書の内容紹介と哲学はいったいぜんたい何をするのかの説明を行っている。第 2 講から第 6 講は感情の本質とその複雑さについて論じられており、たとえばわれわれが実際に恐怖を感じる事態を知覚、身体反応、判断といった観点から考察したり、地域や文化における感情の違いは何に基づくのかを検討している。7 講から 14 講は感情についての応用的な問題を扱っている。たとえば、ロボットは感情を持てるかといった SF っぽいトピックや理性と感情の対立、道徳における感情の役割などが紹介される。まとめとなる 15 講は本書全体の内容をふまえて感情をコントロールするにはどうすればいいかについての見解が示されるとともに、今後感情の哲学について勉強していくための参考文献案内が書かれている。
一見すると本書は広範なトピックを扱っているので通読するのが困難なようにおもわれる。しかしながら、そんなことはない。その理由でもあり、本書の特徴ともなっているのが哲学とはそもそも何をするのかという方法論を丁寧にかつ具体的に示していることである(14-21 頁)。哲学というと個人や人の考え方、生き方についての信念を指すものであったり、プラトンやカントといった哲学者が書いた本を読んで考えたりすることであると言われる。こうした人生哲学や哲学書を読むことも哲学であることは間違いない。他方で、現在の道徳や意識、あるいは感情といった問題にたいして古典的な哲学者に頼ることなしに、身近な経験に訴えたり、経験科学の知見を参照しながら哲学をすることも可能である。本書もそうした方式に則っており、哲学することを議論を作ることであり、考えや主張を吟味することであるという。たとえば、「肉を食べることは不正であるのか」といった主張をしたときに「それは人間ではなく動物が食べることも不正であるのか」と意見をぶつけ、それに反論したりすることで哲学という営みは成立するのである。そして本書で論じられるテーマである感情とはわれわれにとって身近なものでありよく経験することであるので、古典的な哲学書を経由してその問題を論じなければならないということはない。また、哲学だけでなく心理学も感情を扱うので、哲学するときには心理学の実験結果などを活用することもできる。そうした実験結果を集めたり解釈することで心理学の実験ではカバーできない箇所を議論する事が可能となる。このように哲学することとは議論を作ることであること、そして他分野の学問の知見に適宜触れることで本書は様々なトピックを一貫性のある仕方で論じることができる理想的な入門書になっている。
本書のなかでもきわめて興味深いのは「第 10 講 感情と理性は対立するのか」であろう。まず、第 10 講では理性的、合理的であるという評価が他人にも理解できることであるという点を指摘する。そして、感情にも思考的側面があり、たとえば恐怖の感情は恐怖の原因となっている対象が危険であるという思考的な側面がある。このように考えると合理的であるという評価は感情にも適用できる可能性があり、理性と感情の対立は常識的に考えられるほど鋭く対立しているものではないということが明らかにされる。では、理性と感情はなぜ違うとされてきたのだろう。その理由として提示される理論は人間の心には素早く自動的に働くシステム 1 と労力も時間もかかるシステム 2 があるという二重過程理論である。この理論によればいわゆる感情が働くとされる場面ではシステム 1 が用いられる。目の前にクマやヘビがあらわれたときに「ヘビやクマはわたしにとって危険であるので怖がろう」と意識することはない。他方で計画を立てたり、複雑な問題を解こうとしたりする際にはシステム 2 が用いられる。その場合、われわれは意識的に能動的に物事を考えたり、判断したりすることになる。ここで注意しなければならないのは「システム 2 がシステム 1 より常に優れている」のではないし、それゆえ感情が常に悪いものであるという考えも誤っているということだ。本書によると感情がそのような悪者扱いになるのは本来ならシステム 2 が得意な場面なのにもかかわらずシステム 1 が働いてしまって失敗した事例があまりにも注目されているためであるという。
上記のように考えると理性と感情の対立と言われるものは同じものの違う側面であるものを誤って対立させてしまっている。本来なら感情が要求される場面で「そんなのは感情的だ」ということは誤っているし、物事を混同しているのである。他方で感情をコントロールしなければならない場合にはそうしなければならない。なので理性と感情のどちらが優れているのかではなく、今この状況で要請されているのはどのような態度なのかを考えていくのが感情とのよい付き合い方なのかもしれない。