今回紹介するのは信原幸宏『情動の哲学入門 − 価値・道徳・生きる意味 −』である。本書は三部から成り立っており、全部で九章となっている。一部に三章ずつ振り分けられておりバランスの良い構成になっている。
第一部「価値と情動」では価値と情動のもつ関係性が論じられる。第一章では情動と身体の関係が注目される。われわれは情動を感じ取る特別な感覚器官がないことから情動とは判断されるものであると考えるかもしれない。しかし、情動の持つ生々しさを考慮すると身体との関係性があるのではないかと思うであろう。本書では「悲しいから泣くのではなく。泣くから悲しいのである」というジェームズ=ランゲ説をどのように乗り越えるかという議論が行われる。とくに主張されるのは「情動は事物の価値的性質を身体的反応で表し、その身体的反応を脳で感受することによって、価値的性質そのものを感受する(12 頁)」という身体的感受説である。続く第二章では情動と価値判断の関係が論じられる。ここで問題になるのは価値判断をする際に情動は必須なのかそうではないのかということである。なるほど、たしかに事物の価値的性質は事実的性質だけで決まるかもしれない。だがここで注意したいのはたとえばイヌの危険さはイヌが歯をむき出しにしているということだけでは決まらないということだ。つまり、イヌが他のどのような事実的なあり方をした事物とどのような関係にあるのかも考慮しなければならない。ここにイヌの危険さが単なる事実的な性質だけでなく関係的な性質によっても決まるということを論じる可能性が生まれるのである。さて、情動不要論のポイントは価値が事実から導き出せるかである。本書はこの導出に否定的である。事実的性質と価値的性質にある付随的な関係を知るためにはたとえば恐怖の情動によってイヌの危険さを知るというようなことがなければならない。第三章では価値判断と葛藤の問題が論じられる。情動と価値判断が対立するときに価値的性質を正しく捉えているのは価値判断である。とはいえこのような対立があっても情動が変化しないこともある。こうした御しがたい情動は不合理とおもわれるが実は物事を正しく取られているとは考えられないだろうか。本書では御しがたい情動が価値判断に再考を迫る可能性を提案している。
第二部「道徳と情動」では倫理学的な議論における情動の立ち位置について考察している。第四章ではどちらを選んでも悲劇的な結果が生じるような悲劇的ディレンマについて論じられる。こうした悲劇的状況では正しい行為にも関わらずわれわれは罪悪感を抱くことになる。本書ではその「正しい行為」とはいかなるものか、そこで抱かれる罪悪感は適切なものであるかがポイントになる。本書が主張するにはこうした悲劇的ディレンマでも自由で意図的な選択がなされているということ、それゆえ悪が意図的になされている以上、罪悪感が適切であるということが論じられる。第五章では悪をなした人との関係の修復、許しの問題が論じられる。とはいえ悪の中でも償えない悪、許されない悪がある。ではそこに赦しはありえないのだろうか。加害者の償いと被害者側の許せるという気持ちがあったとしても、単に負の情動から逃れたいという気持ちから赦す場合はどうであろうか。本章ではこの難しい問題に対して道徳的関係の修復がいかにして可能か、そしてどのような場合に修復が正当であるかを論じる。第六章では道徳の二人称性が扱われる。道徳的な問題について権利や義務というものがすでに成立しているのなら情動は道徳的な問題にとってどのような意味があるのだろうか。本書では道徳の二人称性、つまり私とあなたとの間にある道徳的なやりとりが注目される。とくに注目されるのは悪意ある振る舞いをされたときに生じる怒りや非難といった反応的情動である。こうした反応的情動はたとえば足をふまれた私が足を踏んだあなたに向ける怒りであるということからもわかるように二人称的である。ここに道徳の二人称性が成立するのである。
第三部では情動と人生のかかわりについて論じられる。第七章では労働において嬉しくないのに嬉しそうにしなくてはならない、尊敬していないのに尊敬しているように見せねばならない感情労働について紹介される。こうした自分が抱くべきでない不適切な情動を抱かせる労働はサービス業や医療従事者に特徴的なものである。こうした感情労働は不適切であるだけでなく有害でもある。本書ではブルーワーを引用しながら感情労働が優越性の承認欲求をみたすためにあるのならば、その有害さは感情労働に従事するものに不当な卑下を強いることにあるのだという(177 頁)。こうした無理強いによって自身が抱いている情動が明確化されないことにこそ感情労働の有害さがあるとも述べている。第八章では情動の正の価値、負の価値が論じられる。本章ではプリンツの学説を批判しながら「価値表象説」を提案する。他方でその学説とは一見相容れないような驚きや恐怖の情動も含めたより包括的な情動の見方を提案する。第九章では人生を物語として考えるときの情動の役割について考察している。
以上が概要である。本書は哲学、倫理学における情動の役割について論じているだけでなく、情動というものがもっている性質や奇妙さというものも紹介してくれる良書である。情動というと不合理さや主観的という側面で語られがちであるが、情動が世界を認識するための一つの手段であるということが本書では繰り返し述べられている。もちろん、そうした情動にも間違いがある可能性はあるがそれでもなお世界を適切に認識するための一つの要素であることは否定し難い。本書はとてもバランスの良い構成になっており読書会などで使うときにもおすすめできる。