今回紹介するのは児玉聡『功利主義入門』(ちくま新書)[以下、「本書」と表記する]である。この本は功利主義という倫理学の理論のなかの一つを紹介するだけでなく、倫理学の入門書になっている。本書によれば倫理を学ぶ方法は2つある。一つは人に暴力を振るってはならないと言うような社会の中で生きていくルールを学ぶものである。もう一つはそのように教わったルールについてその根拠を考えたり、そのルールの意味について考えるものである。こうした考え方は批判的思考ともよばれる。倫理学とは倫理について批判的思考をすることであると言えよう。とはいえここで注意しなければならないのは倫理について批判的に考えるということは倫理に従わないということを意味しないことである。例えば道徳的なルールについて考えることはなんとなく従うのではなく、より確信をもって従うことできるようになったりできるのである。本書では倫理学の中でも、功利主義という理論に着目している。というのも、功利主義は初心者にも理解しやすく、また功利主義への批判を吟味することより議論に親しむことができるからだ。
第一章では倫理と倫理学についての簡単な概説を行っている。例えば倫理は相対的であると言われたりするが、対立する二つのルールの間に共通する深いルールが存在したりするし、殺人の禁止などは時代や文化を問わず普遍なルールであると反論できる。他にも宗教なしの倫理はありえるか、人間は利己的であるから倫理は無駄であるといった主張も批判されている。特に倫理と利己性をめぐる議論は興味深い。そこでも批判されているように利己的な動機と利己的な行為は区別できるし、たとえ利己的な動機から行なわれる行為でも利他的であるというのなら我々は一体何を問題にしていることになるのだろうか。
第二章ではいよいよ功利主義に取り掛かる。まず参照されるのはベンタムによる功利主義の議論である。ベンタムは功利性の原理という正・不正の基準を提案する。それは人がなすべきことは社会全体の幸福を増やすことであり、なすべきでないことは社会全体の幸福を減らす行為のことである。この段階ではまだ曖昧である。ベンタムは快苦の量をきちんと計算しなければならないことや快苦の強弱長短について論じている。また、各人を一人として数え、誰もそれ以上には数えないともいっている。これは快苦の計算をする際に平等に人々を取り扱うために重要である。本書は功利主義の三つの特徴を指摘している。第一に行為の正しさを評価するには行為の帰結を評価することが重要であるという帰結主義である。この場合、動機の正しさや各人の権利を守ることが重要であるという立場は非帰結主義と言えるであろう。第二に人々の幸福に与える影響こそが重要であるという幸福主義である。幸福主義では自由や真理に価値があるのは、それが人々の幸福になるための手段であるからであり、それ自体として独立した価値をもつと考える立場は非幸福主義と言えるであろう。第三に個人ではなく人々の幸福を足し合わせたものを最大化するという総和主義である。
第三章では功利主義への批判を検討する。例えば A と B が無人島で遭難したときに、B が遺言として遺産を競馬クラブに寄付してほしいと言い A はそれを承諾した。しかし、運良く助けられた A は病院に寄付した方がより多くの善を生み出せるのではないかと考えている。また次のようなケースを考えてみよう。火事になった建物に二人の人物が閉じ込められている。一人はのちに名作を書く小説家であり、もう一人は自分の家族だ。二人のうちどちらを助けるべきであろうか。功利主義者であるのならば約束を守らず病院に寄付し、自分の家族よりも小説家を助けると考えられる。本当にそうなのだろうか。この点については次章でより詳しく論じられる。
第四章ではより洗練された功利主義について論じている。現代の洗練された功利主義者も約束や家族への義務、友人に対する特別な義務を認めている。主に二つの点でされている。一つは我々はいちいち功利主義のことを考えて行為する必要はなく、日頃からさまざまな道徳規則を守っていれば良いと考えている。このようにいちいち功利原理を用いて意思決定する必要花とする考えを間接功利主義と呼ぶ。もう一つは約束を守るとか嘘をつかないという義務の重要性を認めつつも、功利主義の観点から行き過ぎた遵守をしないようにチェックしていることだ。このように道徳規則や義務を守ることが社会全体の幸福に貢献するかどうかを検討する立場を規則功利主義と呼ぶ。ここでの規則はあくまで二次的な規則とされ、功利主義という第一原理から派生していると考えるのである。その他にも公平性と道徳的に重要な違いについて論じながら、現代の功利主義は貧困や動物倫理に対する広範囲の影響力を持ち合わせていることが説明される。
第五章では功利主義と公共政策というより大きな問題を取り扱う。例えばロールズが批判したように人々の幸福を総和して最大化を目指す功利主義においては多数者の幸福のために一部の少数派が犠牲になっても構わないという批判がなされている。これに対して功利主義は特定の人や集団の犠牲の上に多数派の幸福が成り立つ社会は長期的に見ると幸福の最大化につながらないであるとか、政策を作る際に指針となる二次的な規則を作ることであると答えることができる。このように考えると功利主義と個人の人権を重視するような自由主義は一体何が違うのか気になるところであろう。確かに功利主義は自由主義を擁護するが自然権などに訴えることはしない。むしろ、あくまで個人や社会の幸福のための自由であることを主張するのである。他にも公衆衛生にページを割いておりより具体的な功利主義と公共政策の関係が論じられる。
第六章ではそもそも幸福とは何かが論じられる。まず幸福調査の難しさが論じられる。「幸福ですか?」と質問しても本人が正直に答えているかわからない、正直に答えているとしても客観的にはそうは見えないということがあるからだ。例えば内閣府の研究会のデータでは幸福度を測る際には、主観的幸福感を参考にしつつ、それに加えて社会状況、心身の健康などを組み合わせるとしている。しかし問題が生じる。こうした客観的指標と幸福とはどのような関係にあるのだろうか。ここでは詳細を省くがいわゆる快楽説、選好充足説など幸福の哲学に関する様々な立場が取り上げられ検討されている。筆者の暫定的な見解も書かれており、単なる理論の紹介に留まっていない点も評価できる。
第七章では心理学や脳科学のような実証科学を参照しながら道徳についてより具体的に考察している。たとえばスロヴィックの研究では統計上の不特定の人々よりも特定の人に対してより心を動かされることが紹介されている。どうやらわれわれの思考は直観的思考と合理的思考とが存在し、前者は情念や感情を基盤にしており素早く効率的に判断するのに向いているが、後者は推論を基盤にしており情報処理に時間がかかるが前者の判断を評価し、修正することができる。ここからさきほどの研究はいわば心理的麻痺が生じているとスロヴィックは論じている。つまり、特定の人命が問題になる事例では直観的なシステムがはたらくが、統計上の人命が問題になる場合には直観的なシステムはそれほど働かないのである。このような道徳に関する心理学、脳科学はいわば「人間はどう考え、行動するか」を記述する理論であるのに対して、倫理学は「人間がこう考え、行動すべきだ」を問題にする規範理論である。道徳に関する記述理論をふまえたうえで規範理論である功利主義は議論をしていかなければならないと本書は述べる。
このように本書は功利主義を倫理学の領域だけでなく、公共政策や心理学、脳科学などの知見も踏まえつつ多面的に論じている。それゆえ功利主義が単なる理想論や観念論ではなく地に足がついた営みであることを本書は伝えている。今回はとくに注目しなかったが本書には J 美という少女が登場し、彼女が功利主義を知り入門していくというストーリーもあるなど読者への配慮も行き届いている。倫理学を学ぶ際の最初の一冊としておすすめである。