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優れたひとになってもよいのか? - 佐藤『心とからだの倫理学』雑感 -

2021年08月16日

書評
佐藤岳詩
B09BJ8CWV7

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 より美しく、より賢く、より強くなりたいという願望をもつことはそれほど珍しいことではない。この願望が満たされないがゆえに苦しむこともあるだろうし、そのためならどんな努力も惜しまないであろう。そのために化粧やダイエット、受験や資格の勉強、筋力トレーニングといったものに人々は時間とお金を費やすのである。では、もっと手軽に、そして確実にこうした願望が満たされるとしたらわれわれはそれを使ってもよいのだろうか。美容整形をおこない、スマートドラックを使い、ドーピングに頼ってもいいのだろうか。こうした問題を扱うのが応用倫理におけるエンハンスメントと言われる分野である。

 今回紹介したいのは佐藤岳詩『心とからだの倫理学―エンハンスメントから考える―』(ちくまプリマー新書)である[以下、引用は頁数のみ表記する]。佐藤は『メタ倫理学入門』(勁草書房)や『「倫理の問題」とは何か』(光文社新書)といった倫理学の入門書を執筆している注目の倫理学者である。先の二冊ではメタ倫理といわれる抽象的でな理論的な分野がメインであったが、本書ではわれわれの身近で具体的な問題であるエンハンスメントが中心となっている。佐藤自身もあとがきで述べているように「理論が現実から乖離してしまっているのではないかという恐れ(295 頁)」からエンハンスメントについて考えるようになったのだという。もちろん、具体的であるからといって簡単でわかりやすいことが書かれているのではない。エンハンスメントという「そんなのはその人次第じゃん」と言いたくなる問題が社会や道徳と複雑に関係していることが注意深く、丁寧に論述されている。

 まずは本書の内容を概観しよう。先程ものべたように美容整形、スマートドラック、ドーピングが論じられているのに加えて、トランスジェンダー、遺伝子操作、モラルエンハンスメントと多種多様である。一見するとこれだけの内容を一冊の新書で執筆するのは困難のようにおもえるが本書にはいくつかの工夫がある。ひとつは第一部「身体」、第二部「心」、第三部「人間」というアウトラインを設定することによって上記の問題群を考え、分類するための適切な道筋を示してくれることだ。こうした道筋を設定してくれることによって本書の構成は一貫性のあるものになっており、エンハンスメントという分野を包括的に考えるための足場を提供してくれる。もうひとつの工夫はエンハンスメントの問題を考えるうえで重要になる倫理学のアイデアや議論といった考えるためのツールを効果的に配置し紹介していることだ。たとえば「美容整形は身体に傷をつけるから悪いのだ」という主張に対しては「普遍化可能性の原則」を援用して、「身体に傷をつけるものは全て悪いと言えなくてはならない」と分析することによって問題点を明確にしている(38 頁)。そしてこうした倫理学的な考え方が単に紹介されているだけではなく、様々なトピックにたいしてどのように適用できるのかといったいわば倫理学の実践的な使い方も展開され、読者が自分たちで倫理学的に考えていくための模範になっている。

 上記の二つの工夫からも理解されるように本書は現実的かつ具体的な問題にたいして倫理学の理論を活用して分析するためのまさにお手本とも言うべきものになっている。さらに本書は倫理的な問題にたいして著者自らの意見を押し付けるのではなく読者が自分で考えて判断するための余地を残している。本書ではたとえば「ドーピングを行う人は身体を大切にしていないか」といった問題を設定し、それについて賛成派と反対派の意見をそれぞれとりあげその主張の構造や問題点を指摘するというスタイルで書かれており、最終的にどっちが正しいかという答えは与えられない。もちろん、賛成派と反対派のどちらが正しいのかをハッキリしてほしいという人もいるかもしれない。「賛成派も反対派もどっちも一理あるという日和見主義ではなにも問題は解決していないのではないか?」と考えてしまうかもしれない。しかしながら、こうした危惧とは裏腹に、本書では賛成派と反対派がどのような点で対立していたのかということについては一定の答えを与えている。たとえばドーピングの問題について賛成派も反対派も自分の身体は大事であるという点や不平等や不公平は避けることなどは一致しているものの、ドーピングの解禁が平等をもたらすか不平等をもたらすかといった点で鋭く対立しているのだと説明する(84 頁)。このようにして本書はエンハンスメントの倫理的な問題を解決するのではなく、その問題のポイントとなっていたものとはいったいなんだったのかを提案することによって、読者に倫理的な問題を考える際の手がかりを与えているのである。

 このように行き届いた工夫と配慮からなる本書が提案する倫理学的な考え方は次の 3 つの視点から考えることであると佐藤は述べている(13 頁)。まず美容整形やドーピングといった心身への介入を検討する当事者、次にその当事者の友人、家族といった周囲の人々、最後に社会はどうあるべきかといった社会の視点である。当事者の視点から本当にその介入が幸福なのかどうか、そしてそうだとしても社会的な視点から考察すると介入を受け入れる人とそうでない人との間にどのような影響を及ぼすのかといったように問題は様々な視点から考察されねばならない(287-290 頁)。本書はそうしたエンハンスメントに関する複雑さを単純化することなく真摯に向き合いたいと考えるすべての人々の必読書となるであろう。

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