「功利主義」というのはよくもわるくもインパクトがある単語であるようにおもわれる。一方ではその単語に冷酷さや非人間性を感じ取る人もいるであろうし、他方では功利主義とはいってもそんなものがほんとに可能なのかという疑問を持つ人もいるであろう。こうした相反する反応は功利主義という思想の性質に由来するのか、それとも誤解に由来するのだろうか。今回紹介する。カタジナ・デ・ラザリ=ラデクとピーター・シンガーの共著である『功利主義とは何か』(岩波書店)は功利主義をコンパクトかつ満遍なく紹介してくれる好著である。本書の概要を紹介したあとで、コメントを加えることにする。
第一章では功利主義を主張した哲学者についての簡単な紹介が行われている。「最大多数の最大幸福」で知られるベンサム、『自由論』の著者としても知られる J.S. ミルといったおなじみの哲学者からシジヴィックという専門家向けの哲学者も含まれている。これらの哲学者を論じる際に、本書が着目しているのは彼らが功利主義的な思想を実践してきたことであろう。たとえばベンサムは同性愛否定に反対していたし、ミルも女性の権利について強く主張していた。そしてシジヴィックも自らの宗教的信念を強要されることに反対し、女性が学問に参加できるための準備を行っていたのである。
第二章では功利主義者の主張を紹介、検討しながら、彼らの主張の評価を行っている。まず本書が取り上げるのはベンサムとミルである。たとえばベンサムは功利主義を正当化するときに「あなたが採用する原理が自身の行動を動機づけるするかどうか」を問うているが、この問いかけはベンサム自身が採用している人間観、つまり人間は自分自身の快苦によってのみ動機づけされるという主張も功利主義では説明できないという困難に陥る。また、ミルは幸福が究極目的であることを証明する際に「何かが望ましいということは、人々が実際にそれを望んでいるということが証拠になる」という趣旨のことを述べているが、薬物依存者がヘロインを望んでいるが、それはヘロインの望ましさを示すことにはならないであろう。他にもシジヴィックによる証明、ハーサニィによる合理的選択から功利主義を擁護する議論、スマート、ヘアといった哲学者の議論が紹介される。本書がとくに注目しているのはこうした哲学者の主張にはいわゆる「黄金率」の発想が根底にあり、功利主義はその発想をもっともよく捉えているものとして考えることができるのである。本章ではグリーンによる神経科学的アプローチも紹介され、功利主義をめぐる学問の学際化が伺える。
第三章では功利主義が最大化するものとはいったいなんであるのかについて論じられる。本書は主に快楽説、選好説、多元説などを紹介している。快楽説はその名の通り、快楽だけが唯一の善であるという見解である。とはいえ、この見解は「豚にのみふさわしい」という反論を受けてきた。この反論の厄介なところは「快楽の質的違い」を導入したとしても、たとえばオペラにいくことはフットボールにいくよりも質的によい快楽を与えるというのなら、「洗練されている」「上品だ」という快楽とは別の価値を導入してしまうことにある。さらに論争を引き起こしたのはノージックによる経験機械の批判であろう。われわれがなんでも望んだ経験を与えてくれる機械があるとする。われわれはその機械に繋がれたいとおもうだろうか。そして繋がれたくないのならいったい何が問題になっているのだろうか。選好説では経験機械を退けることができる。というのも、われわれが望んでいるのはある経験が与えてくれる快楽だけでなく、その経験が現実であることも望んでいるからだ。しかし、選好説も難問にぶちあたる。たとえば、われわれが望んでいることが実現されたときに、たとえわれわれがそのことを知らなくても(もう会うこともない人の幸福を望んでおり、それが達成されたときなど)、われわれのウェルビーイングが増大するという事態が生じるからである。そこで提案されるのは多元説である。この説では快楽だけがよいのではなく、知識、真理、美などにそれぞれ内在的価値が存在すると主張している。とはいえ、もちろんこの説にも問題がある。このように内在的価値があるとされる項目はいったいどのような基準で採用されたのであろうか。もし、これらの項目は究極的善に寄与するからと答えるのなら、それはもはや内在的価値を認めていないことになる。そして、こうした項目が対立するときにはどのように解消するかも不明なのである。功利主義者はこうした問題にたいしてそうした知識、正義という項目に価値があるのは、そうした項目が価値あるものとされる社会はそうでない社会よりも多くのウェルビーイングがあるからだと主張することができる。
第四章では功利主義者への反論が紹介される。とりあげられる反論は「不道徳な行為を要求する」、「効用の測定」、「多くを要求しすぎる」などバラエティに富んでいる。こうした反論にたいする本書の応答のなかには「功利主義だけに当てはまるとは限らない」といった苦し紛れのものもあるが、こうした反論と応答が盛んに行われているのはたいへん興味深いものであった。
第五章では功利主義におけるバリエーションである規則功利主義が論じられる。本章でとりわけ重要となるのは規則功利主義における規則、たとえば「物を盗んではならない」「拷問してはならない」といったものがときにはわれわれの直観に反する帰結を招くことである。こうした傾向は功利主義の密教化や自己抹消に至ることになるのだが、本書ではそうしたスタンスは批判されている。
第六章では功利主義の実践がテーマになる。生命の終わりの決定、動物倫理、効果的な利他主義などが扱われている。功利主義が単に道徳の理論として強力であるだけでなく、われわれの実践についても大きな影響力を及ぼしていることを論じている。
以上が本書の概要である。まず指摘できるのは本書は倫理学入門ではないので、道徳についてどのように論じることができるのかという倫理学的な方法論についてはあまりきちんと論じられていない。そのため倫理学についてある程度学んだ人が功利主義を見渡すためのパンフレットとして位置づけるのが適切であるように思われる。また訳文にも問題はないけれども比較的直訳調で書かれている。哲学書であるため論理構成を考えるとたしかに直訳のほうが論理が追えるのだが、読みやすさは失われている。このような欠点はあるもののそうした欠点を上回るほどに本書は充実した功利主義案内になっている。ぜひ読んでみてほしい。