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スタンダードというよりはオルタナティブな入門書 - 瀧澤弘和『現代経済学』(中公新書)雑感 -

2022年03月28日

経済学
ゲーム理論
行動経済学
瀧澤弘和
B07PMBZS13

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 経済学の入門書を読むとだいたいミクロ経済学、次にマクロ経済学と進む。小さなものから大きなものへ、基礎的なものから応用的なものへという流れは入門書、教科書として定番の流れであるし、実際そのように記述するのは読者の理解を促すためにもよいのであろう。しかしながら経済学という学問が今現在どういうことをしているのかは気になるところである。それは単に身近なことと関連づけて経済について語るとか、数学的なことや計算式を書かずに経済学について執筆することとは異なっている。つまり経済学がどのような発展を遂げて、どのような成果、あるいは失敗を経てわれわれが大学などで学ぶようなものになったのかということが気になってしまうのである。

 今回紹介する瀧澤弘和『現代経済学 ゲーム理論・行動経済学・制度論』(中公新書)[以下、「本書」と表記し、引用する際には頁数のみを表記する]はまさに現代の経済学がいったいどのような点で従来の経済学とは異なるアプローチができるようになったかを紹介する好著である。「まえがき」で述べられているように本書は経済学において新たな分野が立ち上がることを可能にしたアプローチと方法はなにか、そしてそれがどのようなインパクトを経済学にもたらしたのかを客観的に記述することに重点を置いている(iv-v 頁)。経済学の方法論を強調することで学問としての経済学がどのような問題に挑み、発展してきたかを論じようというのである。この論述のスタイルが本書の独自性であり、これが成功しているかどうかが本書を評価するときに重要なポイントとなる。

 本書の中でも経済学の強力な方法として挙げられているのはゲーム理論である。たとえば「序章 経済学の展開」ではノーベル経済学章賞受賞者を解説しながら近年の経済学にとって大きな変革をもたらしたとされる、1990 年以降に受賞した人物が注目される。とりわけ本書にとって重要な人物であるのはジョン・ナッシュ、ラインハルト・ゼルテン、ジョン・ハーサニといったゲーム理論の分析が受賞理由となった人々である。ゲーム理論は従来の需要と供給が出会って成立するタイプの市場分析を越えた労働市場や金融市場といったより複雑な領域を分析できるという点で大きな魅力を持っている(22 頁)。またゲーム理論によって雇用者に約束した通りに労働者がパフォーマンスを発揮するにはどのような組織をつくればよいのかという「契約と組織の経済学」、会社組織のコーボレート・ガバナンスなどを研究することが可能になった。一方でこのように手法やアプローチが変化、洗練することによって専門性が高まったことで経済学が何を研究しているのかわかりにくくなったことも本書は触れている。つまり、経済を安定させる政府の役割といったわかりやすい大問題からは距離を置くようになったのだ(24 頁)。

 このように経済学の入門書の序盤からゲーム理論という方法論を強調するのは珍しい。このように強調することで本書はどのような論述が可能になるのだろうか。「第 1 章 市場メカニズムの理論」では比較的スタンダードな新古典派経済学に関する論述がなされている。新古典派経済学では経済主体が合理的であると仮定されており、消費者は効用を最大化し、生産者は利潤を最大化する主体として扱われている(52 頁)。「第 2 章 ゲーム理論のインパクト」では本書の独自性が発揮されることになる。引き続き「期待効用理論」の枠組みで合理的な主体を分析してみると、合理的な主体とは自らの選択の結果に対する「選好」とその結果がどのような確率でもたらされるかに関する「信念」という心的状態を併せ持つ主体として描かれていることがわかる(58 頁)。このように分析したあとでゲーム理論の強みは一人の意思決定者だけでなく複数の意思決定者が絡んだ状況においてなにが選択されるかを分析できることにあることが強調される(60 頁)。詳細は本書を読んでほしいのだが、ゲーム的状況において一人の意思決定者という考え方では「他人が何を選択するかという意思決定」をゲームの参加者が互いに信念としてもっていなければならないという問題が生まれてしまう(61-2 頁)。ゲーム理論におけるナッシュ均衡はこうした問題をうまく扱えるという利点があるのだ。こうしたゲーム理論への着目はマクロ経済学の解説でも活用されている。本書ではマクロ経済学におけるルーカスの「合理的期待モデル」がナッシュ均衡が解決した解決方法と同じ構造をもっていること、それゆえマクロ経済学といえどもミクロ経済学的な個々の主体の意思決定という場面を考慮しなければならないことが指摘される(102 頁)。

 ここまでゲーム理論の重要性が論じられてきたけれども、もちろんそれ以外にも現代経済学には重要な方法論・アプローチが存在する。一つは「行動経済学」である。従来の経済学では人間の合理性が前提されていたが心理学的なアプローチを導入することで人間がもっている非合理的な側面やバイアスを明らかにした(115−126 頁)。行動経済学のアプローチは経済学の学際性を高めたり(126 頁)、政策思想ではリバタリアン・パターナリズムを生み出すなどした(133 頁)。もう一つの大きな動きは制度が重要であるという「制度の経済学」の流れであろう。市場メカニズムの議論では財・サービスと金銭の交換において特に問題なく行われるが、もうすこし複雑な取引、契約まで分析対象を広げると制度の問題が出てくるようになる。たとえば金銭貸借は単に契約書を交わしておわりというものではなく、お金を借りる人の信用度やじっさいにお金を返してくれるかといったことが問題となる。クレジットカード会社が返済が滞る利用者の情報を共有する仕組みなどがまさにそうである(171 頁)。こうした制度をめぐる経済学では進化ゲーム理論や比較制度分析などの方法が採用されており、とくに後者では経済史というデータがモデルを想定することなしに経済学的な知見を生み出すという点で画期的である。このようにゲーム理論・行動経済学・制度論という三つが本書で強調される現代経済学における大きなアプローチである。

 最後に本書全体について簡単なコメントをしておこう。本書は著者が重要であると考えるアプローチ・方法論が際立つような構成となっている。そのためかトピックによっては説明が圧縮されすぎている印象がある(マクロ経済学など)。まずは経済学全体を概観できる飯田泰之『経済学講義』(ちくま新書)などを読んである程度経済学についての全体像を頭に入れてからのほうが本書のおもしろさがよりわかるようにおもえる。

 もう一つ特徴的なのは引用される哲学者の多さである。アダム・スミスが引用されるのは不思議ではないが、ジョン・スチュアート・ミルやヴィルヘルム・ディルタイからジョン・サール、イアン・ハッキングなど経済学の本とは思えない人選である。終章で語られる「経済学の哲学」とも言えるような著者の洞察はたしかにまだ不完全ではあるけれども、興味深い論点を多数含んでいる。

 本書は経済学という学問に興味を持ち始めた人も、既にある程度経済学について学んだ人にもおすすめできる良書である。

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