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人間を描く - 森博嗣『キシマ先生の静かな生活』雑感 -

2022年03月21日

書評
森博嗣
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 学問の純粋さ、そしてその人間らしさについて筆者はほとんど森博嗣の著作から影響を受けている。『すべてが F』になるでデビューした森博嗣の作品には大学で研究する研究者、つまり教授、准教授(助教授)、助手、院生が登場する。森博嗣自身が大学の研究者であったこともあり、彼が執筆する作品には単なる記号として研究者が登場するのではなく、じっさいに研究者がどのような面で苦労し、あるいは研究をどのように楽しんでいるかが冷静で、しかし熱意のある筆致で描かれている。森博嗣が描く研究者は単に冷静沈着で合理的であるだけではない。そこには人間が合理的であろうとする生々しいまでの純粋さへの情念が描かれているのだ。

 そうした森博嗣がまさに大学の研究者を描いた短編として名高いのが「キシマ先生の静かな生活」であろう(引用は森博嗣『僕は秋子に借りがある』(講談社文庫)から行い、頁数のみを表記する)。キシマ先生は大学でも変わり者として知られており、出世せずに助手のままでいる。主人公の「僕」はキシマ先生の研究分野に近いことやその自由な振る舞いを尊敬している。そしてキシマ先生は大学の計算機センタにいる沢村さんという女性のことが好きである。その女性との恋愛や学問、大学についての事情なども触れられるがなによりもメインなのはキシマ先生という人物の生き方であろう。

 キシマ先生を一言で表すのなら自由であろう。けれどそれは自分勝手という意味ではない。自律を兼ね備えた自由である。キシマ先生は院生の発表にも容赦がない。常にケンカするような喋り方をするという(355 頁)。大学院まで進学した人はわかるかもしれないが、ゼミでの議論がすこしケンカっぽく見えることは M 1あるあるエピソードではないだろうか。研究の場では人格と学問が区別され、あくまで批判されているのは発表者ではなく発表そのものなのである。そんな環境のなかでもキシマ先生はエキセントリックな人物として描かれている。キシマ先生にとって大事なのは学問そのものであり、学術的議論は真摯に行われなければならないのであろう。

 もう一つキシマ先生のエピソードとして語られるのはある学会の一幕である(356 頁)。海外から招かれた研究者が行った発表にたいしてキシマ先生はその発表には余計な仮定が一つあり、それがこの論文を台無しにしている。なぜこんな辻褄合わせをしたのか、エキセントリックだと質問したのだ。研究者はその場では返答できなかったものの後日発表された論文はキシマ先生の指摘どおり余計な仮定が使われることなく、内容も素晴らしいものであった。ここで語られる僕とキシマ先生の会話はとても印象的なものなので引用しておこう。僕は質問でキシマ先生が使った「エキセントリック」という言葉の意味はどのようなものなのか質問した。

「はは、そうだね。王道を外れている、という意味だ」 先生はにやりと微笑んで答えた。

「王道って、学問に王道なしの王道ですか?」

「違う、まったく反対だ。 ロイヤルロードの意味じゃない。 覇道と言うべきかな。僕は、王道という言葉が好きだから、悪い意味には絶対に使わないよ。 学問には王道しかない」(358 頁)

 学問には王道しかない。キシマ先生は学問を愛していたのである。

 このように学問を愛するだけにみえるキシマ先生であるが、人間も愛していた。それが沢村さんである。キシマ先生は助手の身分のため比較的時間を自由に扱えた。彼の生活は午前零時が起床時間になっており、午後になるともう大学から帰って寝てしまうのだ。そんなキシマ先生も計算機センタの鍵を解錠する澤田さんと会うために開室時間の 15 分も前から計算機センタで待っているのだ。ただ沢村さんに一目会うために。「キシマ先生は、この十五分間を沢村さんに捧げていたのだ。これは、時間に几帳面で、合理的な生活を旨とするキシマ先生には極めて異例のことだ。僕はずっと、先生が重要な時間の浪費をしている、と思っていた。(362 頁)」。その後、僕とキシマ先生と沢村さんでおしゃべりする機会などあったりするものの沢村さんには既に婚約者がおりキシマ先生は失恋してしまったようにおもえた。ただキシマ先生と僕が二人で話した時にキシマ先生は過去に既に沢村さんにプロポーズしていたことやプロポーズを断られたけれどもそれは彼女の本意ではなかったことなどが語られる(372 頁)。この自信満々なキシマ先生の態度に僕は笑いそうになるけれどもそれ以上に嬉しかったことが描かれる。そしてキシマ先生が後に離婚した沢村さんと結婚したことを知り、キシマ先生の自信が本物であったことを理解する。嘘をついてたわけではなかったのだ、と。

 しかしながら、こうしたキシマ先生と僕の美しい日々は突然終わってしまう。助教授となったキシマ先生は大学をやめてしまう。助手とは違い授業や会議などに参加しなければならない。もう今までのように午前零時を起床時間にできないのだ。僕も事情は同じようなものだった。研究する時間をほとんど取れず、人事のこと、カリキュラムのこと、大学改革のことに時間を取られてしまう。

一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいた、あの素敵な時間は、どこへ行ってしまったのだろう?(378 頁)

 物語の最後に衝撃的な出来事がある。それは皆さんの目で確かめてほしい。けれど「僕」はそれでもなおキシマ先生が学問の王道を歩かれていると信じるところで物語は終わる。

 読み終えるたびにとても美しい小説だとおもう。自由に学問をすることの美しさとそのように生きる人々の人間的魅力が表裏一体であることが示されている。フィクションにおける学者や研究者というのは常識から外れていたり、現在の価値観とは異なる振る舞いをするように描かれることが多い。自らの知的好奇心のためなら倫理観など知らぬというマッドサイエンティストが典型的なものであろう。森博嗣が描く研究者にもそうした振る舞いが観られるかもしれないが、自らの知的好奇心を満たそうとする欲求がとても人間的なものであることに注意しているという点で大きく異なっている。われわれの身近な生活の延長上に、いやもしかしたら酒を飲み、人々と喫茶店で語る、そんな生活と共に知的好奇心を満たそうとする欲求がある。簡単にいってしまえば研究者も人間なのである。

 もしかしたら読む人にはあまりにも現実から離れた生活感のために理想的すぎると思われるかもしれない。とはいえ、人間らしさを描くと理想的になりすぎるというのは小説にはよくある話である。その意味でこの小説はある意味王道の小説と言えるかもしれない。

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