哲学をする際に困難な問題としてその語り口なり文章の小難しさもあるだろうが、扱っている対象そのものが抽象的(意識、自由など)であるというのが挙げられる。つまりそもそも扱っているテーマなり対象が身近ではないのでそれについて普段からどうおもっているかというきっかけすらないのでどこから手を付けていいのかわからなくなってしまうのだ。もっと身近でわかりやすいところから哲学はできないのだろうか。
今回紹介するジンメルの「橋と扉」(ジンメル(北川東子編訳・鈴木直訳)『 ジンメル・コレクション 』(ちくま学芸文庫)所収、引用する際には Kindle 版の位置 No.を表記する)はわれわれの普段の生活に身近な「橋と扉」を哲学的に論じるおもしろい哲学的エッセイである。まずは内容を簡単に要約したのちに筆者がおもうところを少し述べることにする。
ジンメルによれば外界、自然界のものはすべてのものが結合しているようにもみえるし、また分離しているようにもみており両義性を帯びている。他方で人間は結びつけたり、切り離したりする能力が与えられているのだという。しかもこの分離と結合の能力はかなり独特な仕方で行われる。たとえば、二つのものについて「たがいに分離した」とみなすとき、すでにわれわれは両者を意識のなかで結びつけており、その結びつけてるものから両者を浮き立たせるという操作がなされている。このことは分離の場合でも同様だ。われわれが「両者が結びついている」と思う時、それはすでに分離されていることが意識されていなければならない。
こうした抽象的な議論を行ったあとでジンメルは具体的なケースを挙げながら自らの議論を例証している。たとえば、二つの集落の間に道を切り開いた人の偉業はどこにあるのだろうか。なるほど人々は道がなくても二つの集落を往復していたのであろう。けれど地面に道をはっきりつくったことによって二つの集落は客観的に結ばれることになる。ジンメルはこうした事業に人間的な特別さを見て取る。そうした事業のなかでも最たるものは「橋」である。橋をかける場合、その橋の両端を結びつけようとする意志は集落のケースのように空間的な距離によってだけでなく、その地形による抵抗によっても妨害されている。この妨害を克服することによって人間の意志が実現される象徴となるのが橋なのである。
川の両岸がたんに離れているだけではなく、「分離されている」と感じるのは私たちに特有のことだ。もし私たちが、私たちの目的思考や必要性や空想力のなかで両岸をあらかじめ結びつけていなかったとしたら、この分離概念はそもそも意味をもたないだろう。(Kindle 版位置 No. 807)
このようにして作られる橋はもちろん審美的な価値を帯びている。ジンメルはこの点を肖像画などと比較したうえで、しかし橋が芸術作品と異なるのは自然の景観のなかに組み込まれているということにある。橋は自然による偶然性を減じさせ、統一性へと高められるのである。
このように橋が人間に与えられている能力である分離と結合のうち「分離」に重きを置いたものであるのに対して「扉」は分離と結合が同じ行為の両側面であるとジンメルは述べる。たとえば最初に小屋を建てた人は無限の空間のなかから一部を切り取り個別の空間を作り上げる。そこに取り付けられた扉は人間の空間と外部のなかにある「関節」のようなものであり内部と外部の分断そのものを廃棄するのである。
壁は沈黙しているが、扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ、しかしあくまで、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ、これこそ人間の深層にとって本質的なことなのだ。(Kindle 版位置 No. 840)
また、ジンメルは橋と扉の違いを次のように述べている。たとえば小屋を作るときには無限の空間の一部が切り取られ有限な統一体を作ろうしながらも、扉は無限の空間へと再び結びつけている。有限なものを結びつけている橋との違いは有限と無限が隣り合うことにある。さらに橋が二点間を結ぶ確実性を保証するようなものであるのにたいして、扉は常に無限なものへと開かれているのである。このようにジンメルによれば扉は人間の作業の中に分離と結合が同時に入り込んでくるという点で橋よりも生命力にあふれている。ジンメルは橋がどちらの方向に渡っても意味の違いがないのにたいして扉は入るか出るかによってまったく意図が異なるのだと端的に示している。
最後にジンメルは自らの主張を要約している。一方では人間は事物を結合・分離する存在である。橋の事例からもわかるように二つの岸という相互に無関係なものを「分離されている」と把握し、それを橋で「結ぼう」とする。他方で人間は境界を知らない存在だ。たしかに扉を閉ざして家に引きこもるというのは自然的存在のなかから一部をきりとり、境界を形づくてっている。しかし、その境界が意味をもつのはその境界線にある扉が象徴しているもの、つまりいつでもこの境界を乗り越えることができるという可能性によってなのである。
以上が要約である。興味深いのはジンメルが橋と扉というありふれた素材から哲学らしい思考(すこしわるくいうと観念的で抽象的な思考)を編み出していることであろう。もちろん、橋や扉についての文化人類学的な研究ではジンメルが考えたことは当てはまらないかもしれない。しかしながら、われわれが橋や扉に抱くイメージそのものをできるだけ保持したままその根源的なものは何かと探ろうとするアプローチはやはりおもしろい。このエッセイを読んだあとで扉や橋をみるときのわれわれの気持ちはすこしくらい変化するのではないか。
もう一つ興味深いのはこのエッセイの根底的なテーマとなっている「結合」と「分離」の思想であろう。われわれが単に物事をつなごうとしているのではなく、むしろそうした物事が分離されていると感じているからつなげようとしているのであるというジンメルの洞察は鋭いものがある。ここで疑問に思うのは、ジンメルはこの結合・分離のアプローチを自然界だけでなく、人間関係や抽象的な概念にまで適用しようとはおもわなかったのかということである。もちろん、結合・分離という思考そのものが人間に深く備わったものであると前提しているのでそれを自らに適用するというのは方法論的に難しいかもしれない。しかし、どうしてもこの SNS が流行っている世界において人間のつながり・分断というものが可視化されるのを考慮すると、結合・分離の思考が過剰になりものごとをつなげすぎたり、分離しすぎたりするのではないかと考えてしまいたくなる。
ジンメルのエッセイはテーマは素朴で、しかしその考え方は古き良き哲学であるという特徴がある。ジンメルの考えが現代でどこまで通用するかわからないが、われわれの想像力を喚起し、身近なもののあり方を再考させるものが多い。目次で気になったところから読み始めてもいいであろう。少し難しいことを考えたいが、難しすぎることは考えたくないときにおすすめのエッセイ集である。