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これこそ新書である - 坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』 (岩波新書) 雑感 -

2022年03月07日

書評
経済学
坂井豊貴
B073PPR78Q

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 このブログを書くようになってから新書をよく読むようになった。新書は手に入りやすいし、ハードカバーなどに比べて比較的頁も短くはやく読めるように思われたからだ。しかしながら、こうした期待は裏切られることも少なくない。意外に読むのに時間がかかるのだ。学問的誠実さか出版社の良心的態度なのかよくわからないが最近の新書はかなり学術書めいた出で立ちになっている。ページ数は短いけれども学問的内容は省かれず圧縮されておりそれを解きほぐすのに頁をいったりきたり、あるいはそもそもどういうことが書かれているかを理解しようと唸っているうちに時間がすぎてしまう。もちろん、新書がこのように学術的にしっかりしていることは悪いことではない。インターネットがどれほど普及しようとも、いや普及してしまったからこそ学問的知見へのアクセスのための第一歩としての新書(紙であれ電子書籍であれ)が必要であり、そのためには学術的に誠実であることは重要である。だが、もし新書で読者が学びの歩みを止めてしまったらそれは損失ではないだろうか。まずは一冊読み終えることで変わる景色もあるはずである。

 今回紹介したいのは坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』 (岩波新書)(以下、『本書』と表記する。) であり、まさに読み終えることができる新書である。本書は「入門の入門」とあるようにミクロ経済学を学んでいくための一歩手前から読者を導いてくれる。とはいえ、それは内容をかんたんに紹介したり、あるいは難しい内容に触れないように語るというやり方ではない。本書の特徴として説明する際に図が効果的な仕方で挿入されることにある。そのため読者は自身が学んでいる内容をきちんと図で確認しながら議論を負うことができる。図を使うからといって多用するのではなく、あくまで必要最低限の数の図を用いて紹介しており読みやすさに配慮している。本書は全体で 150 頁ほどであり、全 10 章となっている。

 本書を読んで驚くのがその丁寧さであろう。第一章では無差別曲線の紹介を行い消費者行動の選好についての基本的な説明を行っている。この紹介のみで第一章という区切りがあるのは最初は驚いたが読み返してみるとミクロ経済学の基本中の基本であり、まずはここを抑えなければ進まないという意味でもメリハリの効いた構成である。第二章では消費者は実際にどのように行動できるか(予算線)とどのような行動を選ぶか(最適化)について論じている。「合理的な選択」が日常的な用法の意味とは異なることや医療保険政策を事例にして分析を行うなど配慮が行き届いている。第一章と第二章とで消費者のセットアップを行ったあとで第三章では消費者たちをマクロに扱うために需要曲線を紹介している。コーヒーの値段によって消費者の行動がどのように変化し、消費者の行動の積み重ねがどのような曲線を描くことになるのかが重要であることが示される。著者の留学生時代のエピソードが盛り込まれて説明されており親しみやすさと著者の苦労が伝わる章でもある。ここまでは主に消費者の立場から論じていたが、第四章からは生産者側の説明が行われる。限界費用の逓増という追加的に一単位生産する費用が高まっていく事態を想定しながら供給曲線の描き方が説明される。このようにして消費者と生産者側のマインドセットを論じて第五章で市場均衡が論じられることになる。市場ではやりとりされるものの価格が消費者側の需要曲線と生産者側の供給曲線が交差する市場均衡価格になる。この市場均衡価格が優れているのは消費者の余剰(消費者がこの値段なら買ってもよいとおもった価格から実際の価格を引いたもの、得した分の和)と生産者の余剰(売上から費用を引いた利潤の和)を足し合わせた消費者余剰を最大化することにある。本章ではこうした市場の魅力とともに市場の動きを鈍化させる狙い撃ち課税などがどのような仕組みで問題を起こすのかも論じている。こうして本書は全体の半分ほどの分量を使って市場の説明までにたどり着くことになる。

 第六章では売買取引を経ずに生産活動が他者へ影響を与える外部性の話や調整ゲームという他人と同じ選択肢を選ぶことが重要となる状況を説明している。負の外部性から正の外部性、それからナッシュ均衡、パレート最適などミクロ経済学でおなじみの用語が端的にまとめられており個人的には一番興味をもった箇所である。第七章では独占と寡占とが論じられる。独占市場、すなわち生産者が生産量を決定することで価格をコントロールできる状況では意外なことに高値をつけていると一時的には利潤も高いが長期的には価格競争をしかけてくる新規参入を招いてしまうので利潤が低くなることが論じられる。こうした状況では展開形ゲームという人々の意思決定を分析するためのツールが役に立つ。この分析からわかることは先手が安値をつけておくと後手は参入しないことを選択する予想をしたうえで先手にとってもっとも利潤が高まる選択をする状況が成立することである。第八章ではリスクと保険が論じられる。期待効用理論を用いてリスクにたいする人々の態度が紹介されたあとに保険会社がどのようにしてリスクを減らしつつ利益をあげているか、そしてそこにはどのような問題があるのかが論じられる。民間の保険会社が利益をあげようと契約前の遺伝子検査を必須にする時代が来ることを考えると公的保険制度の重要さがわかるというのが印象的であった。第九章では国防サービスや一般道路などの公共財を扱う。公共財ではフリーライドが発生しやすいけれども、そのために政府が強制的に課税することもまた難しい問題であることが説明される。第十章では格差と貧困を減らすための再分配について扱う。所得分布をあらわすジニ係数から相対的貧困と絶対的貧困の区別などかんたんに解決できないが重要な問題が論じられている。

 以上が本書の内容である。読後の感想は「まさにこれが新書!」である。新書の手軽さ、シンプルさがここまで強調されているのは珍しい。今後ミクロ経済学を学んでいくための参考文献も充実している。かなりおすすめの一冊である。

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