生活の中にあまりにも経済が溶け込みすぎている一方で、「経済学」なるものはわれわれの普段の日常的な言葉、思考、考え方からして異なっているように思われるからかなんだかとっつきにくいイメージがある。もちろん、経済学に限らずあらゆる学問に入門する際にその特有の言葉遣い、概念、思考方法に親しむことが大事である。しかしながら、経済学は経済という現象、おそらくそこにはわれわれがネットで見る経済ニュースからわれわれが日々行っている様々な支払いまでを含むものを扱うゆえにあまりにもわれわれの生活に密接しすぎているので、経済学で用いられる用語、概念、思考をあらためて学問のツールとして考えるにはなにか工夫が必要なように思われるのだ。
今回紹介する飯田泰之『 経済学講義』(ちくま新書)(以下、「本書」と表記する)はまさにそういう工夫が行き届いている好著である。本書の特色は経済学をストーリーとして描くことにあり、そのために本書は目的論的な記述を行っている。つまり ○○ を証明するためにこの理論モデルが必要になったのだという記述である。本書のもう一つの特色は経済学の思考ツールを身につけるためにデータと対話し、データを検証する計量経済学の説明に頁を割いていることだ。このように本書は経済学の思考ツールとしての理論と経済学が扱う対象であるデータを重視しながらも読者にわかりやすく説明しようとしている。
本書は大きく分けて三部から成り立っている。第一部では「ミクロ経済学」、第二部では「マクロ経済学」、第三部では「計量経済学」を扱っている。それぞれかんたんに紹介しよう。
第一部ではミクロ経済学を需要と供給、市場、人間行動の観点から論じている。本書でも指摘しているようにミクロ経済学の説明はわれわれの日常的な生活的直観に反するものが多い。たとえば、ミクロ経済学で基本となっている与えられた条件のなかでよりよい状態を目指す合理的な人間像は現実的なものではない。しかしながら、こうしたモデル的思考は経済学を考えるための第一歩なのだ。それをふまえたうえで第 1 章では自由市場の望ましさ、市場における需要曲線と需要曲線の便利さ、それらの曲線の傾きを考えるうえでの「限界」、「逓減」といった用語の意味が紹介される。その一方で「ウレシサ」という独自の、しかしわかりやすい用語も取り入れて説明をしている。第 2 章では理想的に思えた市場が失敗するケースを考察する。独占市場は一見わるいようにおもえるが、独占を目指す企業のイノベーションを奪うことになることや最適な経済環境にならない「市場の失敗」ケースを「費用逓減産業」、「外部生問題」、「公共財問題」から論じている。こうした失敗から政府の介入の必要性を感じるかもしれないが、今度は政府が失敗する可能性も考えないといけなくなる。このように市場と政府の観点から政策を考えなければならないのである。第 3 章では人間行動をもっとリアルに考えるためにゲーム理論、情報の非対称性、行動経済学を論じる。第 3 章はいわば合理的な人間モデルを前提としたミクロ経済学への反省、批判であるといえよう。
第二部で紹介されるマクロ経済学は個人、企業の行動がメインであったミクロ経済学とは異なり、国全体の景気、物価などについて考察する。マクロ経済学が可能になった背景には統計的な理論モデルを検証できるようになったという事情がある。第 4 章はニュースなどでよくみる GDP の解説からはじまる。GDP は「一国のなかで一年間に生み出された付加価値の総合計額」と定義される。GDP は国内の生産、所得、支出のどこからでも求められるのが大きな魅力である。他方で GDP がどのように決定されるかはミクロ経済学的な考え方をそのまま当てはめる仮説(セイの法則)やマクロ経済独自の論理があるという議論(ケインズによる有効需要の原理)があるが、その国の経済環境によっても左右される。GDP を取り入れることでたとえば野球チームが優勝したときの経済効果などを検討することができるようになるのだ。第 5 章では市場分析、とくに財市場と貨幣市場を分析するのに有用となる IS-LM モデルが紹介される。まず、財市場のみに着目したモデルを紹介した後に、投資、それにまるわる利子率という側面が見落とされたことを指摘する。そこで財市場だけでなく貨幣市場も同時に考える IS-LM モデルの必要性が示されることになる。たとえば新しい機械や設備を購入するという投資活動は利子率に大きく左右される。このモデルからわかることは不況対策として GDP を引き上げる際に、IS 曲線、つまり財市場にたいする財政政策と LM 曲線、つまり貨幣市場にたいする金融政策に区別されることだ。とはいえ、たとえば財政政策がうまくいくようにするには LM 曲線の形状について検討しなければならない。もちろん、IS-LM モデルも万能ではなく、中央銀行によるコントロールが必要となる場合があることも紹介される。第 6 章では失業の問題も扱われるなど第 2 部は具体的であるが複雑な要素が絡むため個人的にはよみすすめていくうえでかなりの難所であった。
第三部では統計学の考え方を紹介している。第 7 章では学力試験でおなじみの偏差値から相関関数までかんたんに紹介し、第 8 章では「財政政策を行ったら GDP が上昇した」といった因果関係が成立しているかを検討する手法を紹介している。経済学的なケースはほとんど実験が不可能ななかで重回帰分析とよばれる手法で被説明変数(たとえばマンションの賃貸価格)が複数の説明変数(最寄り駅からの歩数や部屋の広さ)を用いて説明するアプローチが紹介される。もちろん、単に手法だけを洗練させても十分ではなく取り扱うデータの性質にも注意しなければならないことも説明される。
以上が、本書の概要である。たしかに本書は新書であるとはいえあまりに多くのことを簡潔に説明しようとしすぎる傾向があるのは間違いない。しかしながら、本書の目論見である「経済学をストーリー」として描くということにはある程度成功しており、今後経済学を学ぶためのガイドマップ、オリエンテーションとしては十分な説明がされていると素人のわたしは考える。「経済学入門」としてではなく「経済学入門の入門」あたりの位置づけで読むとするならおすすめしたい書籍である。