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他人が気になってしまう私達 - 唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか みきわめと対人関係の心理学』(東京大学出版会)雑感 -

2022年02月14日

書評
心理学
唐沢かおり
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 今回紹介するのは唐沢かおり『なぜ心を読みすぎるのか: みきわめと対人関係の心理学』(東京大学出版会)である(以下、「本書」と表記し、引用する際にはページ数飲みを記す)。本書の中でも個人的に重要であるとおもわれる箇所についてのみ触れながら本書を紹介したい。

 本書の目的について知るためにまずは「第 1 章 対人認知を考える視点――他者をみきわめる目」から検討していこう。われわれはこの社会のなかで「他者」とかかわらずに生きていくことはできない。この意味においてわれわれが他者を知る、理解することはその人にたいしてどのような態度をとるか、あるいはコミュニケーションを行うかも含めて不可欠となる。そしてわれわれは単にその人がどのような人であるかを知りたいだけではなく、その人の心の動きまで読み取ろうとする。本書はそうした他人の心を読み取ってしまうことも含めたものを取り扱う点で従来の社会心理学における対人認知の射程判定よりも幅広いものを扱うことになる。ここでとくに注目されるのは「行動の原因となる他者の心を知る」という意味での対人認知と、その認知を通じて他者に対して私達が向ける評価的なまなざしである(3 頁)。われわれは会話を通じて他人をよく知るようになり、その人がどういう人であるかを知ることになる。これに加えて、本書が主張したいのはこうした対人認知には他者がよい人なのかどうかを評価する過程でもあるということだ。そしてこの評価の対象となるのは行動だけではなく、それを生み出すとされる意図、動機、性格などであり、本書ではまとめて「心」と表記される(4 頁)。

 では何故われわれはそのように他人の心に関心を抱くようになるのか。本書によるとその答えは行為がおこなわれた原因をする際に心が鍵となるからだ(8 頁)。たとえば、他者がよい行動やわるい行動をおこなった場合に、それが心とはまったく無関係な事情によって行われたのならわれわれは他者の行為を評価することを保留するであろうし、そうした外的な事情が存在しないのなら、当人のが行った行為として評価が可能となる(9 頁)。さらに重要なのはわれわれの評価は行動だけにとどまることはなく、その行動をした人自身にまで広がることだ。たとえば、友人が約束を破ったときに「約束を破るという行動が悪い」ではなく「約束をやぶったあなたが悪い」にまで評価の対象は及ぶのである(10 頁)。

 こうした評価がなされるのはその人がわれわれにとって近づきたい人なのか離れたい人なのかを見極めなければならないからだ(11 頁)。さらに、われわれが行動の原因として心を認知することは他人の行動を予測するための基礎となる(16 頁)。たとえばある行動がある人のなかに継続的にある善意などによって生じているということになればその人の行動は予測しやすくなり、その人とどのように接するかについてのてがかりになる。こうした他者の評価や、予測こそが他者の心を読むことについての内実なのである。

 本書は上記のような観点から社会心理学における対人認知の研究についての紹介や評価を行っている。興味深いのは対人認知はわれわれの社会生活にとって不可欠であるものの、タイトルにもあるようにわれわれは他人の心を読みすぎてしまうことによるバイアスが存在することである。「第 3 章 行動の原因としての心」にて論じているのはそのような問題である。たとえば、われわれは社会的に望ましい行動については「その場の状況や役割に従っただけ」であり行為者の心についてはあまり考慮されない一方で、社会的に望ましくない行動についてはわざとそうした原因を求めるようになり、行為者の心について言及されやすくなる(78-79 頁)。こうした議論は行動の原因について「人か状況か」という二分法を前提にしている。この二分法はたしかに問題があるものの、「情状酌量」といった事態からもわかるように状況が行為者の責任を減らす要因になる。ここでむしろ問わなければならないのは、われわれが実際に行う推論では行動を制約する状況要因について十分考慮されることなく、行動の原因が行為者の内的な特性に帰属されやすいという「対応バイアス」があることだ。たとえば本書ではギルバートの三段階モデルを引用し、対応バイアスを生み出す認知メカニズムについて紹介している(92 頁)。ここでは詳しく紹介しないが、このモデルによればわれわれの認知には素早く自動的に処理される過程と認知資源が必要とされる過程が存在し、認知資源に余裕がない場合には後者の過程が省かれてしまい対応バイアスが生じてしまうということだ。興味深いのはこれはたしかにバイアスであるけれども、バイアスはそれなりに合理性をもっているということだ。たとえば対応バイアスの文化差に関する研究によればアジア人は欧米人よりも状況要因と人要因の両方が行動を決めていると考える傾向が強いのだという(99 頁)。この研究が示唆しているのは、バイアスとは外的環境にたいする適応的な行動をする過程でバイアスが生じたという見解である。この場合バイアスとはかならずしも修正されるべきものではない。それは日常において複雑な情報が与えられた状況における適応として、合理的に情報を処理するために生じたものなのであると考えることができる。

 かんたんにいくつか本書のなかでも興味深いところをピックアップしてきた。このように本書はわれわれが他者を理解するときに心を読みすぎてしまうという事態を様々な角度から紹介し、興味深い知見を示してくれる好著である。最後にいくつかこの本の発展的、あるいは外部的なコメントをしておこう。近年、倫理学において心理学的な知見から道徳について考える道徳心理学という分野がある。主にそこで参照されるのは進化心理学や脳神経科学的な見解であるが、本書が与えてくれる「人をみきわめること」に重点を置いた知見は経験論的データを提供するだけでなく、人柄、性格などに的をしぼった徳倫理にたいする概念的なインパクトも有しているかもしれない。また、ダーウォルなどが着目している「二人称的観点」の問題にも本書は重要な知見を与えてくれる可能性があるかもしれない。それゆえ本書は社会心理学の本であり、道徳心理学の本であるというだけでなく倫理学の本としても読める可能性をもっており、こうした分野に興味を持っている人にはぜひ読んでもらいたい一冊である。

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