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論破っていったいどうやるの? - ウェストン『論証のルールブック』雑感 -

2021年08月09日

書評
アンソニーウェストン
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 論破という言葉はよく聞くが実のところこの単語が何を意味しているのかはなかなか不明瞭である。この単語はネットの議論でよく使われている。それは KO 宣言であったり、議論に参加しない第三者の評価でもあったりするかもしれない。そんなボクシングのような言葉の殴り合いとして「議論」とされるものが存在しているとするのなら、われわれはどうやってその議論の「勝ち負け」をジャッジすればいいのだろう。

 今回紹介するウェストン『論証のルールブック』[以下、引用はアンソニー・ウェストン(古草秀子訳)『論証のルールブック』(ちくま学芸文庫)から頁数のみ表記する]はわれわれが議論する際のルールを提案してくれる。この本では「論証」とは「結論を支える一連の根拠や証拠を提示すること(13 頁)」であるとされる。たんにわれわれの意見や信念を言いっぱなしにしないことが大事なのだ。そして論証がなぜ重要であるかというと見解の是非を判断し、動物倫理などの問題を検討するための手段であるからだ(15 頁)。もちろん、論証には各種データの取り扱いなども含まれている。そうした議論の材料がうまく自分の主張をサポートしているのかを検討するのも大事なことだ。

 またウェストンは論証の魅力を次のようにも述べている。

…手間暇かけて論証の練習をすることはそれ自体が魅力的な行為なのだ。心がより柔軟になり、制約から自由になり、鋭敏になる。論理的思考がどれほどの成果をもたらすかを評価するようになる(17 頁)。

 この記事ではウェストンが挙げているルールをすべて紹介することはできないのでいくつか重要であると思われるルールを抜粋して紹介しよう。まず、「ルール 5 感情的な意味合いの強い言葉を避ける」だ。ウェストンは次のような主張を悪しき例として紹介している。

面目ないことに、かつてあれほど隆盛を誇った旅客鉄道をすっかり衰退させてしまったアメリカは、いまや名誉にかけて過去の繁栄を取り戻す義務がある!(30 頁)

 この例文では感情的な言葉が並べているだけで具体的な根拠がないとウェストンは指摘する。衰退した原因はどこにあるのか?なにが面目ないのか?かつて隆盛を誇った組織が混迷に陥った例は多くあるがそうした組織をすべて立ちなおさせるべきなのか?そして「名誉にかけて」とはいったいどういうことなのか?誰かと約束をしたりしたのだろうか?ウェストンが例示した文は日本でもよく見られる文句だ。「名誉」を「日本人の誇り」に置き換えるとその手の主張は珍しくないことに気づくであろう。

 感情的な表現を乱用してはいけないのは自分の主張だけでなく相手の主張について語るときもだ。相手の主張を感情的な表現で貶めて自分の主張を立派で見栄えのよいものにしてはならないとウェストンは語る(32 頁)。「他人の考えを理解しようとつとめよう。他人の考えを正しく理解しようとすることは大切だ(32 頁)」、と。このように議論という営みは自分と他人との共同作業であるということがわかる。自分と他人は異なる主義主張をもっていながらも論証という共有ツールを使うことはできる。議論は単に相手をやりこめたり、痛めつけたりするものではない。議論で展開される論証を吟味し、評価することによって意見(他人のみならず自分自身のものも含む)が適切なものであるかを互いに確かめる行為なのだ。

 次にとりあげたいのは「第 5 章 原因についての論証(80-91 頁)」である。この章では原因と結果に関する論証がメインとなっている。たとえば、教室で前列の席に座る人は成績がいい傾向にあるとか、結婚している人はしてない人よりも幸福感が強いことなどが原因と結果に関する論証の事例だ。ウェストンはこうしたケースについて「ルール 18 相関関係から原因を導く論証」として考えるアプローチを提案するが他方で「ルール 19 相関関係には別の理由があるかもしれない」ということも指摘している。たとえば、偶然的な相関関係(ウェストンの例でいえば 2012 年にスーパーボウルに出た二つのチームの本拠地が同じ年にマリファナを解禁するなど)もあるし、いわゆる積極的な人が成功するというケースは積極性が成功を導いたのではなく、成功が積極性を導いたと考えることもできる。このように二つの現象の相関関係が偶然的であったり、あるいは向きが逆(A→B ではなく B→A)である可能性が存在するのだ。さらにいえば、二つの現象が相関しているとしても実は共通する別の要素があるのかもしれない。教室で前の席に座る生徒のほうが成績がよいのは学校生活に最善を尽くす生徒が自ら前の席に座り、いい成績を納めるとも考えられるからだ。

 こうした相関関係を吟味するには「ルール 20 もっとも確からしい説明を探す 」を考える必要があるとウェストンは言う(86 頁)。たとえば結婚と幸福は関連があるが、結婚が幸福度を高めるのか、幸福度の高い人が結婚して、その結婚生活を維持するのに成功する傾向があるのか?ウェストンは後者の主張のほうが蓋然性は低いと考える。というのも、幸福によって人は魅力的なパートナーになるかもしれないが、自分自身のことに熱中するかもしれないし、幸福だからといってパートナーにたいする責任感や誠実さをあらわすかどうかはわからないからだ(88 頁)。ただここで注意すべきなのはたしからしい説明というのは陰謀や超自然的なはたらきによるものではないというウェストンの指摘であろう(89 頁)。テロや暗殺事件といった劇的な出来事は矛盾や不可解な点があるので陰謀論を支持する人も多いがいくら普通の説明が不完全であるからといって陰謀論がそれを免れているとはかぎらないし、説明不能な点はもっとたくさんあるのだ。ネットの議論はどうしても陰謀論に陥りやすい。一見シンプルですっきりした議論にみえる陰謀論は拡散されやすく人々の共感を獲得しやすいからだ。そうした議論に自らが陥らないためにも原因と結果に関する議論の難しさを心得ておく必要がある。

 このように本書は具体的な論証のルールが書かれているがわたしがもっとも重要であると考えているのは「第 10 章 公開討論」である。そこではじっさいにわれわれが議論を行う際に論争相手にとるべき態度、たとえば「相手の意見を変えようとするよりも、なんらかの妥協点を探ろうとするべきだ(166 頁)」といったことが書かれている。当たり前のことだが論争というのは論争相手が存在することではじめて成立する。なので論争相手には敬意を払わないといけない。このように議論という営みを考えるとやはり「論破」という行為なりレッテルは議論が共同作業であることを見えなくさせる危ないワードになっているのではないだろうか。

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