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理想と人間性の間 - ミル『功利主義』(岩波文庫)雑感 -

2022年02月07日

哲学
J.S.ミル
関口正司
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 今回紹介するのは J.S.ミル(関口正司訳)『功利主義』(岩波文庫)である[以下、「本書」と表記し、引用する際には頁数のみを表記する]。功利主義というと計算高く、優しさや愛情といったものを否定するイメージが強い。また功利主義が道徳の理論であるというのは一見したところ不思議に思える。功利主義というのはそもそも道徳なんて否定しているようにみえるからだ。本書で語られる功利主義はそうしたイメージを覆す人間味溢れる理論である。以下、かんたんに内容を紹介しておこう。

 第一章「概論」では正しさと不正に関する論争についてまったく進歩が見られていないこと、道徳における第一原理の重要性を論じている。ミルによれば科学は個々のレベルにおける真理が一般理論よりも先行しているが道徳においては第一原理が先行していると考えるのが自然である。というのも、行為や行為を定めるルールは何かしらの目的を目指しているからだ。従来の道徳哲学は第一原理ではなく人々の感情、とりわけ好悪の感情にのみ着目していたので議論に進歩がなかった。そしてミルは効用の原理、つまりベンサムが最大幸福原理と呼んだものを道徳の原理として認めることによって道徳上の様々な問題点を解決するであろうと考えている。興味深いのは功利主義を主張する際にミルは功利主義の理論は証明ができると考えていることだ。もちろんここで言われる「証明」とは数学的な証明とは異なることはミル自身も理解している。手段としてではなくそれ自体で善であるものはいわゆる証明の対象にはならないかもしれないが、だからといって恣意的な選択になるとはならない。ミルが考えているのはもっと広い意味での証明でありわれわれの理性的な能力が扱える範囲で道徳について論じることはできるのである。

 「第二章 功利主義とは何か」では功利主義への誤解や反論に応答することがメインとなっている。ここで言及される誤解や反論のなかには現代のわれわれが功利主義にたいして抱いてしまうような種類の誤解や反論も含まれており功利主義への誤解はわりと長く続いていてしまっていることがわかる。「効用」という単語で低俗な快楽しかイメージされたり、反対に一時的で些細なものは効用ではないといった仕方で語られることをミルは嘆いている。効用に基づいた道徳とは幸福を増進させる傾向があるのならそれに応じて行為は正しいものとなり、幸福とは反対のものをもたらす傾向があればそれに応じてその行為は不正なものになる。幸福とは快楽や苦痛の欠如であり、不幸とは苦痛や快楽の欠如を示している(24 頁)。ここに関連する箇所で有名なのは「快楽の質」に関する議論であろう。ミルによれば質が異なる二つの快楽があるとき「両方について同程度によく知っていて、それらを評価することも実際に経験することも同程度にできる人々の場合、自分たちの高度な能力を働かせる世知活のあり方をはっきり選び取ることは、疑問の余地のない事実である。(28 頁)」「満足した愚者よりも、満足していないソクラテスがよい(31 頁)」というフレーズで言い表されるミルのスタンスはエリート主義があらわれている。その他にも議論はあるが量の点からも質の点からも苦痛を免れ、快楽が豊富であるような状態こそが功利主義的道徳における究極目的であるというのはシンプルな主張が重要であろう。

 「第三章 道徳的行為を導く動機づけにおいて」では人を義務づけるものや義務の拘束力、道徳的規準のサンクションについて述べている。サンクションには外的サンクションと内的サンクションとがあるがミルが着目しているのは後者である。ミルによれば内的サンクションとは心のなかにある感情であり、義務違反に付随するものだ(73 頁)。さらにこの義務感情とでも呼ぶべきものはわれわれの人間のうちに基礎をもっており、それは人間の社会的感情、人間同士で一体化したいという欲求である(80 頁)。興味深いのはミルによればこの一体化の感情は文明や政治の進歩によってますます強く、自然なものとなっていき外的サンクションがない場合でさえ強力な拘束力を発揮するのである(87 頁)。人間社会が進歩していくことにたいしてミルはかなりの確信をもっていることが伺える箇所である。

 「第四章 効用の原理の証明について」はそのタイトルの通り証明を行っていくわけであるが先程も注意したようにミルの「証明」は数学的な証明とは異なることを思い出しながら読む必要がある。ミルがここで示したいのは功利主義によれば幸福が目的として望ましいものであり、そして唯一望ましいということである(89 頁)。さてミルの「証明」はかなり奇妙である。たとえば、ある物体が目に見えるものだということを証明することとしてできるのはその物体が実際に人々に見えているということを示すことである。同様に、あるものが望ましいものだと言える唯一の証拠は、それを実際に人々が望んでいるということである(90 頁)。この説明はあまりにもあっさりしすぎているがミルはかまわずわれわれが幸福だけを望んでおり、それ以外は望んでいないのだということを示そうとする。たとえば人々が現に幸福とは違うもの、たとえば徳を望むことを功利主義者は否定しない。徳を究極目的への手段として望むことも、徳をそれ自体として望むことは心のあり方としても正しいので功利主義者は否定しないのである。ミルの主張としては人間本性が幸福の一部や手段を求めているようにできているのなら、このことが証明になるのだという(99 頁)。

 「第五章 正義と効用の関係について」は本書のなかでも一番文量が多く話もややこしいようにおもえるがミル自身が最後に要約しているように本題は正義に伴う感情の解明にあり、正義の事例は便宜の事例でもあるが、正義にはそれに伴う特別な感情があるということだ(158 頁)。この章では道徳と便宜を区別する際の根拠となる他人を罰したいという感情についてもふれられており(121 頁)、ミルの道徳哲学の根本原理が盛り込まれている。

 以上が要約である。「功利主義」というと理性を重視した人間味が薄い理論のイメージがあったが、ミルが書いたものを実際に読んでみると彼が「功利主義」に託したものはわれわれが自然にもっている感情や人間性をどのように陶冶していくかという側面もあることがわかる。もちろん、ミルは人間の善性や進歩を楽観的に捉えすぎているであろうし、知性や理性に訴える彼の見解はエリート主義かもしれない。しかしながら、本書にて言及しているミルの人間観はそれほど突飛なものではないことは事実である。功利主義とは理想主義とヒューマニズムの間を行き来する思考なのかもしれない。

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