今回紹介する「パン屋再襲撃」[村上春樹『パン屋再襲撃』(文春文庫)所収、引用する際にはページ数のみを表記する]はとある夫婦の「襲撃」を描くものである。
物語のあらすじは次のようなものだ。
ある深夜に夫婦があまりの空腹で眠れなくなってしまった。冷蔵庫にはなにもなくコンビニもない時代なので買い出しにも行けない。深夜に開いているレストランでも探そうと夫が言うものの妻は「それはなにか間違っている」となかなかうまくいかない。悩ましい飢餓感について夫は昔、パン屋を襲撃したことを思い出す。当時、若き夫とその相棒は普通のパン屋にパン強盗をしにいった。パン屋の店主はクラシック音楽のマニアで自分が聴いているレコードを最後まで聴けばパンをいくらでももっていってよいという。若き夫と相棒はその提案を受け入れ音楽を最後まで聞き、好きなだけパンを手に入れて食べることになった。しかし、彼らはそこで混乱してしまったという。パンとワーグナーになんの関係があるのだ、と。この襲撃で彼らの関係は解消され、若き夫も呪いのような状態にかけられることになった。これを聞いた妻はその呪いは今でも夫を苦しめているのだという。夫婦が感じている飢餓感もその呪いであるのだ、と。そして、この呪いを解消するにはもう一度パン屋を襲う必要があるのだ、と。早速二人は車に乗り、なぜか妻が用意していた散弾銃とスキーマスクを不審におもうものの「パン屋再襲撃」を目指して深夜の東京を走り回る。しかし深夜にパンを焼いている店なぞなく途方に暮れていたが妻はマクドナルドの看板を見つけそこを襲うことにしたと夫に言う。深夜のマクドナルドに突入する。店員の接客を合図にスキーマスクをかぶった二人は店を閉め、ビックマック 30 個を作らせる。普通の強盗だと思っている店長がお金なら出すので返す声を聞かず二人はマクドナルドの店員にひたすらビックマックを作らせる
「どうしてこんなことをしなくちゃいけないんですか?」、「お金を持って逃げて、それで好きなものを買って食べればいいのに。だいいちビックマックを三十個食べたって、それがいったい何の役に立つっていうの?(34 頁)」という女性店員のまっとうな主張に「悪いとは思うけれど、パン屋が開いてなかったのよ」「パン屋が開いていれば、ちゃんとパン屋を襲ったんだけれど(34 頁)」と応答する。出来上がったビックマック 30 個を手に入れた夫婦は店員を拘束しマクドナルドを後にする。30 分ほど走らせたあとに二人はようやくビックマックを食べることができ、二人を悩ませたあの深い飢餓感も消滅していた。
「でも、こんなことをする必要が本当にあったんだろうか?(36 頁)」という夫に「もちろんよ(36 頁)」と妻はこたえるのだった。
現実的なシチュエーションのなかに突如入り込む「襲撃」が非現実感をもたらしファンタジー要素を高める不思議な短編である。この短編の感想を書くためにまずは物語の構造について触れたあとに「飢餓感」について述べることにする。
この物語は前半のパン屋襲撃とマクドナルド襲撃との二つに区別することができる。パン屋襲撃によって若き夫が受けた呪いをマクドナルド襲撃によって解消しようとするのがこの物語のテーマである。では夫が受けた呪いとはいかなるものであったのだろうか。パン屋襲撃時に夫は貧乏でとても飢えていた。労働意欲はなく彼が欲していたのはただパンを奪うことであった。しかし、そこで彼が体験したのは上でも書いたように店主が聴いているクラシックのレコードを最後まで聴いてくれるのならパンを好きなだけもっていってもよいというものであった。この店主の提案はいわば交換、商取引のようなものであったが夫はひどく混乱してしまいそんな提案を聞かずに強奪しておけばよかったのだと後悔する。確かに誰一人傷つかず、店主はクラシック音楽の普及ができ、夫は腹いっぱいパンを食べることができた。「にもかかわらず、そこに何か重大な間違いが存在しているとわれわれは感じたんだ。そしてその誤謬は原理のわからないままに、われわれの生活に暗い影を落とす様になったんだ。僕がさっき呪いという言葉を使ったのはそのせいなんだ。(23 頁)」
さて夫が受けた呪いとはどのようなものであったのか。マクドナルド襲撃でその呪いがとかれていることを考えるとそれは「暴力によって自分の欲求が達成されなかったこと」であるといってよいであろう。ここで言われている暴力とは相手を実際に殴る、痛めつけるというよりも銃による威嚇、脅しのことである。パン屋襲撃で達成されなかったことは自分の欲望を暴力によって達成できなかったこと。これに尽きる。黙って音楽を聞くこととパンを平和的に交換することは確かに両者の欲求を満足させるという意味では理にかなった交換である。しかしそこには自分の欲望を暴力によって押し通すということが達成されることはなかった。これが呪いであり、飢餓感の正体である。
夫はこの飢餓感を次のようにたとえている
① 僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。② 下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。③ 海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし正確なところはわからない。④ 何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。(15 頁)
物語が進むなかでその水の透明度が「不在が実在する(16 頁)」をあらわしていることや、物語が進むにつれて透明度が増していくことが語られる(24 頁)。この海底火山イメージを個人の内面と考えるかある種の政治的運動と考えるかは難しい問題であるが、純粋無垢なもののなかに包まれている暴力的衝動というのは、たとえば理想的な理念を掲げた集団が暴力によって敵だけでなく自らも傷つけていくといった事態を考えてもいいかもしれない。村上春樹の卓見は海底火山、すなわち暴力との距離感がその透明さのゆえに測れなくなっているという点にある。この物語はそうした暴力的衝動を抱えている人であったり思想であったりがどれほど洗練されようとも、あるいは洗練されているがゆえにその暴力的衝動と隣合わせになっているということ、そしてそれはたやすくなされてしまうということを描いた短編であるといえる。