今回紹介するのはバッジーニ、フォスル『哲学の道具箱』(共立出版)だ(以下、本書と表記し印象する際には頁数のみを表記する)。
「第一章 論証の基本ツール」では「演繹」「帰納法」といった基本的なツールを紹介している。論理学の教科書のような堅苦しい説明が行われるかとおもいきや親しみやすいケースを挙げてじっさいにツールを使ってみるという話の流れになっているのでそれほど難解ではない。また「トートロジー」といった他人をあざけるのに用いられる単語が論理学ではどのように定義されているかも解説されている。われわれの日常的な会話や議論(とりわけ SNS)でも「定義」「論証」といったものの意味が自明視されているがその用法においてはトラブルになりがちである。この章を読むだけでも余計な混乱に陥らないですむはずだ。またツールだけではなくスピノザやロックといった哲学者の思考にもふれておりこうした哲学者の思考方法が決して突飛であったり神秘的であったりするのではなくきちんとツールを使って行われているということを示している(もちろん、哲学者の思考がうまくいっているかは別の問題である)。
「第二章 その他の論証ツール」では「アブダクション」「仮説演繹法」といったものから「思考実験」「直観ポンプ」まで扱われる。この章ではツールの信頼性が現在論争中であったり、あるいは場合にはよってはうまく使えなかったりすることを取り上げている。たとえば「アブダクション」は「最善の説明を導く推論」ともよばれ「単純さ」「整合性」といった項目を満たすような乱暴にいってしまえば「できるだけすっきりとした説明を選べ」というものである(41 頁)。しかし、こうしたアブダクションによる説明がうまくいかない事例がありえる。たとえば 123456 という数字の羅列から次の数字は 7 であると予測できるかもしれない。しかし「1を 5 回足して次は 10 を足すという規則」があるかもしれない。この場合最善ではあるけれども誤りなのである。このようにツールそれ自体が吟味される可能性もきちんと紹介されている。
「第三章 論証評価のツール」では論証を検討するためのツールを紹介している。ここでは「反例」について紹介しよう。たとえば「すべての X は Y である」のような全称の主張には「反例」が一つでもあれば反証されてしまう(「Y ではない X がある」など)。倫理学的な主張として「よい行為とは快楽をもたらす行為である」と証明するとしよう。これにたいしては「たとえば寄付をすることは快楽をもたらさないがそれでもよい行為ではないか」という反例が挙げられる。ポイントはこれにたいして応答が可能であるということだ。「寄付を受ける人の快楽は増すであろう」という応答をすることで元の主張の明確化が行われることになる(83−4 頁)。このように論証評価とは論証がいいものかわるいものかを区別するだけではなく主張をよりもっともらしいものにする建設的な作業なのだ。
哲学者の使う言葉には「主観的と客観的」「必然的と偶然的」といった区別が多く出てくる。「第四章 概念的区別のツール」で紹介されるのはまさにこうした区別についてである。議論の際に行われる区別というのは「よしあし」の区別であったりする。たとえば「論理的と感情的」の区別の場合では前者がよいものであり後者はわるいものであるとされる。同じように「主観的と客観的」も前者がよく後者がわるいとされる。しかしほんとうだろうか。客観的な知識について考えてみよう。われわれは個人の視点を超えることはできないが人間に特有の視点を超えることはできない。こうした事態についてネーゲルという哲学者は主観性がどこか特定の場所からの眺めであるのなら客観性はどこからでもない眺めということになるはずだと述べる。しかしそんなものに意味があるのだろうか。それが真理なのだろうか。ネーゲルの提案は主観と客観をスペクトルの両端に置くというアプローチである。個人の経験には依存しないし完全に客観的ではないがそれでも困らないという領域における知識がこれによって確保されるかもしれない(164-5 頁)。こうした議論からわかることは概念的区別を行う際にはその区別に含まれる問題点に注意しなければならないということである。
ただやはり哲学者にはもっと期待されているはずである。この世間的な常識をぶち壊すような衝撃的破壊的な発想や従来の差別的な見方の問題点を指摘するといったことである。「第五章 ラジカルな批判のためのツール」はまさにそうしたツールを扱っている。ニーチェ、サルトル、フーコーといった大物哲学者に言及されるツールやフェミニスト的知見が伴うツールなどが挙げられている。おもしろいのはこうした難しくて扱いづらいはずの哲学者の思考がツールとして表記されるとお手軽なものとして見えてくることであろう。ここでの紹介を一旦頭に入れてから大物哲学者が書いたものに挑戦するのもよいであろう。
「第六章 極限のツール」では哲学する際の注意事項のようなものが紹介される。そのなかでも「ゲーテルと不完全性定理」は重要であろう。そこでは科学理論を使って哲学をすることの問題点が紹介される。他にも哲学でおなじみの「懐疑論」も興味深い。懐疑論はデカルトがおこなったように積極的に用いられることもあれば否定的に用いられることもある(実はあなたは培養槽に入れられた脳であることを否定できるだろうか)。懐疑論の問題点は無限背進に陥る点にある。知識と誤りを区別する規準はあるだろうか。あるとしてもその規準を正当化するものは何なのか。これがずっと続いていくのだ。懐疑論者の言うことを聞くべきであろうか。懐疑論をどう扱うかは難しい問題である。懐疑論が提示するルールを退けるのは簡単ではあるが哲学としてほんとうにそれでよいのか。著者はハッキリと述べないものの哲学していくことの希望と困難さを記している。
本書は「道具箱」とあるように哲学をしたりあるいは哲学書を読み解く際の重要なツールを提供している。そして上記にも書いたようにそのツールの使い方や信頼性もきちんと評価している。こうした用語集として利用するのもいいが気になった項目をよんでみたりパッと目についたところ読むのも面白い。各項目ごとの参照もなされているので興味のまま読みすすめることができる。本書は哲学をする人たち、そして哲学者という人たちが何をしているのか気になる人たちにもおすすめの一冊である。