今回紹介するのはプラトン『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)である(以下、『弁明』と表記し、引用する際には頁数のみを表記する)。ソクラテスは哲学者のイメージそのものであるといってよいであろう。誰彼構わず議論を行い、相手の主張の弱点を突いて困らせる。真実の追求のためなら金や名誉にとらわれず裁判であっても自分を弁護せずに真実を追求しようとしたのだ、と。『弁明』で語られるソクラテスの姿は一見そのようなイメージを強めてしまうものと思われるかもしれない。しかしながらソクラテスが語る弁明は哲学することそのものであるので読者はソクラテスが語る言葉をただ受け入れるのではなく彼が語る言葉をきちんと吟味しなければならない。
『弁明』はソクラテスが実際に受けた裁判を題材にしているが訳者の納富信留の解釈によるとこの作品は事実を正確に記した記録ではなくソクラテス裁判とはなんだったのか、ソクラテスの生と死はなんだったのかを哲学として弁明するプラトンの創作であるという(11−12 頁)。そのためか『弁明』で語られるソクラテスの言葉には以後のプラトンによる対話篇を思わせるモチーフが随所にあらわれる。それゆえ『弁明』はプラトン(あるいはソクラテス)の哲学入門としても適しているものとして考えられる。
『弁明』のあらすじを簡単に紹介しておこう。『第一部 告発への弁明』ではソクラテスがなされた告発への弁明を行うことがメインになる。ソクラテスが受けた告発は次のようなものであった。
ソクラテスは不正を犯し、余計なことをしている。地下と天空のことを探求し、弱論を強弁し、またまさにその類いのことを他の人々に教えることで。(22 頁)
この告発に対してソクラテスは自分はそんなことをまったく知らないと答える。そしてそうであるにも関わらず「知者」として憎まれているのは何故なのかを語ることになる。ここから有名なデルフォイの神託、すなわちソクラテスより知恵あるものはだれもいないという神託についてソクラテスがどのように受け止めたのかが語られる。ソクラテスはこの言葉の意味について知るために「知恵があると思われている人」、政治家、詩人、手仕事職人などに会いに行き議論をすることになった。しかしソクラテスはそうした人たちが自分では知恵があると思っているが実際はそうでないと思うようになる(31 頁)。ソクラテスは神託を次のように解釈することにした。
私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っているとおもっているのに対して、私の方は、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で(32 頁)
これは「無知の知」と教科書などで書かれている事態であるが訳者によればそれは違うのだという。訳者の納富は次のように語る。ソクラテスが「自分が知らないと知っている」のであればそこから探求を始めることはないであろう。他方で「自分が知らないと思っている」という「思い」はこのあともさらに確認しつづけていかなければならないものであるからだ。こうした「知る/思う」の区別こそがソクラテスの哲学的探求を行う動機を知るうえで重要になっているのである(125, 128 頁)。神託について語ったソクラテスは同時に自分が憎まれている理由も明らかにする。その理由は自分が真実を話しているからであると彼は述べる(40 頁)。ソクラテスが真実を語ることについて語ると聞き手が彼を憎んでしまう。そして憎まれるということそのものがソクラテスが真実を語る証拠になるという構造がここにあるのだ。訳者の納富はこうしたソクラテスの発言が裁判に参加している聴衆にも向けられているということを指摘する(132 頁)。こうした発言を聞いた聴衆はソクラテスを憎悪し、彼に死刑判決を与えることになる。『弁明』におけるソクラテスの発言が裁判で語られるものであるという文脈はこのような点で重要なものとなっている。このようにしてソクラテスはまず有罪の判決を受けることになる。
「第二部 刑罰の提案」ではソクラテスに対して課せられる刑罰が問われている。ソクラテスは相手方に死刑を求められたがこれにたいしてソクラテスはプリュタネイオンの会堂とよばれる外交使節や競技対価優勝者などが饗される場所での食事を与る権利を求めた。ソクラテスは自分が不正をしたとはおもっていないのでその他のどんな刑罰、禁固刑であれ追放刑であれ意味がないのだという。そしてどこにいったとしても自分が哲学をすることはやめることはないであろうと述べるのだ(90 頁)。
「第三部 判決後のコメント」にてソクラテスは死刑の判決を受けた後に人々に語っている。まずは有罪投票をした人々について次のように語る。たとえソクラテスがいなくなったとしても人生を吟味することから解放されることはないであろう。むしろ今よりもずっと多くの人々が君たちを批判するであろうし、誰かを死においやることでそうした吟味から解放されることはできないのである、と(98 頁)。他方で自分に無罪投票をした人々については自分が死刑判決を受けたことの意味について語る。なるほど、たしかに死は悪いことのなかでも最たるものであるかもしれない。しかしソクラテス自身は今では死は自分にとって善いものであると考えていると述べて死がどれだけ得であるかを語る。最後にソクラテスは自分の子供達が徳ではなく金銭などを追求しているのだとしたらぜひとも吟味してほしいと語り物語は終りを迎える。
今回紹介した『弁明』の特徴として訳者による詳細な解説があることが挙げられる。この解説によってソクラテス裁判の背景や流れを知ることができるのでわれわれはソクラテスの主張がどのようなものであったかをより正確に理解することができるであろう。だがそれ以上にソクラテスの言葉はわれわれに直接届いてしまうことも事実である。真実を語ろうとするソクラテスは当時だけではなく現在のわれわれにも受け入れ難いものであるが、だからこそ『弁明』は古典的な価値を有しているのである。