生き方について考えることはとても贅沢なことである。2021 年の夏を生きている人々からすればこれから世界はどうなってしまうのかという大きな問題と自分たちはどうやって食っていけばいいのかという切実な問題に向き合わざるをえないのが現状である。しかし、生き方というのはどうしても人生に付きまとう問題だ。われわれは未来を見て「このように生きるのだ!」と思うだけではなく、過去を振り返ることで「このように生きてきたのだ」と考えることも出来るからだ。いわばこのようにあとづけの意味で生き方というのはむしろ困難な現状であるからこそ考えてしまうのだろうし、そこに囚われてしまうのである。
そうした「生き方」について描かれた小説のなかでもポピュラーなものとして取り上げられることが多いのがモーム『月と六ペンス』ではないだろうか(以下、引用はサマセット・モーム(金原訳)『月と六ペンス』(新潮文庫)から行い頁数のみ表記する)。この小説は小説家の主人公である「わたし」を語り手として、作中の天才画家であるストリックランドについて綴ったものである。ストリックランドという人物は真面目な父親であり夫であったが絵を描くために家族を捨て創作活動にのめり込む。このエピソードからもわかるようにこの小説は実在の画家であるゴーギャンを題材にしているもののあくまで違う人物として描かれている。「わたし」はストリックランドと知り合い、家族を捨て出ていった彼を追いかけて家族のもとに戻るように説得を試みたり、彼が巻き起こすトラブルにかかわったりしながらも、彼にたいする嫌悪だけではなくある種の好意も感じるようになっていく。
ストリックランドは反社会的な人物として描かれている。常に利己的であり、なんの悪びれもなく金を借り、他人には皮肉や冷笑をおこなう。まるで良心なんてないように。作中でも「わたし」は良心を次のようなものとして考えている。つまり良心とは個人の内部に置かれた法の番人である。他人からの批判はとてもおそろしい。他人から批判されないように社会の利益を第一にかんがえるように人間を矯正するものなのだ、と(89 頁)。しかし、ストリックランドのように良心を気にしない人はそうした非難なんてしったことではない。彼の心にはそういうモラルの領域は存在しないのだ。
注意したいのはストリックランドは反社会であるだけではなく、富や名誉についてもそれほど気にしていないということだ。そして家族を捨てたことも画家になるための代償であるとも考えていない。ストリックランドの心の中では画家になるか、家族を守るかという葛藤さえないのだ。「わたし」に芸術家というのがどれほど厳しいものなのかを説得されようとも「描かなくてはいけないんだ」と応えるストリックランドは次のようにも語る。
おれは、描かなくてはいけない、といっているんだ。描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ(79 頁)
「描かずにはいられない」、この一点のみがストリックランドの心中にあった。われわれは人生においてあらゆる選択をしなければならない。自分の進路であったり、仕事上の意思決定について悩み、そこでは家族や夢が犠牲になったりする。こうした思考は捨てたもので自分のやりたいことを正当化しようという発想を招きこむかもしれない。自分が仕事のためにどれだけのものを犠牲にしたかという考えは自分が達成したことに彩りを与えてくれるからだ。しかし、ストリックランドは違う。彼は自分がやりたいことのためになにかを犠牲にしたという発想はこれっぽっちもない。「やらねばならない」、これだけなのだ。
このような「生き方」をするストリックランドに巻き込まれるのは「わたし」だけではない。たとえば「わたし」の知人でもあるストルーヴェという人物はつまらない作品しか描けない画家であるがその審美眼はたしかな人として描かれている。妻であるブランチを大事にしており慎ましいながらも幸せな生活を送っていた。しかし、ストルーヴェはストリックランドの芸術的才能に惚れ込んでしまうことで事態は一変する。ストリックランドが病に冒され自宅で看病したいと妻ブランチに訴える。ストリックランドのことを気に入らないブランチは反対するものの、ストルーヴェは次のように語る。
この世界に才能ほど素晴らしいものはないからね。だが、持てる者にとって、才能は苦しみの種でもある。僕たちは才能ある者たちにたいして寛容でなくてはならないし、辛抱強くなくてはならないんだ(157−158 頁)
ブランチへの説得が功を奏し、自宅で看病をすることになったストルーヴェの悲劇的な結末については実際に読んでみて確かめてほしい。ストルーヴェも己の審美眼という才能のために苦しむことになったのだ。
こうした知人の悲劇にもかかわらず「わたし」はストリックランドをそれほど非難することはなくなってしまった。
わたしは、道徳を振りかざして怒るのがどうも苦手なのだ。義憤にはかなり自己満足がふくまれていて、ユーモアのセンスが有る人間ならだれでもきまり悪さを感じるものだ。よほど真剣でなければ、自分のことを笑ってしまいそうになる。(199 頁)
さきほど良心について述べたことを考えると「わたし」がそう思うのも無理はない。良心なんてものは自分の外にある社会的なものなのだ。それなのに、まるで自分が最初から良心をもっているかのように他人を道徳的に非難することのおかしさは SNS で飽きるほど見ることができる。このような観点からするとストリックランドという人物はただひたすら自分に正直な人物として描かれているとも考えられる。「絵を描かねばならない」という思考だけがそこにあり、そのために何かを犠牲にするという発想もない。もちろん、そこにはモラルもないのだけれどストリックランドがモラルを締め出しているのはそれが偽善に過ぎないからだという理由ではない。ストリックランドにとって自分の外にあるものは全て余計なのだ。
われわれはストリックランドのようになることはできない。それはあまりにも才能や運を必要とする「賭け」だからだ。他方でわれわれはストリックランドのように生きることはできるかもしれない。われわれの心のなかにある余計なものについて「それは自分らしくないことだ」と認識することさえできるのならば。そうやって自分らしくないこと、したくないことをやるのも人生である。それを踏まえると次の有名な文章もいつもと違う読後感があるであろう。