ニーチェという哲学者はとても厄介な存在で哲学をするうえでは避けることはできないし、そのまま読むにはあまりにも刺激的である。ニーチェが「理性」「神」「道徳」などを批判するその激しさはわれわれの良識さえも揺さぶるからだ。今回とりあげる『偶像の黄昏』(以下、河出文庫版より引用し、頁数のみ表記)もそのような危険性はあるけれどもニーチェの思想をニーチェ自身が要約してくれているため比較的わかりやすい。以下では本書で個人的に重要であるとおもった箇所について触れながら内容についてまとめていく。
「ソクラテスという問題」
生の無価値について語る賢者たちは衰退の典型であるというニーチェの見解から始まる。とりわけ標的となるのはソクラテスだ。ニーチェはソクラテスの容姿、出自さえ非難する。こうしたニーチェの徹底的ともいえる攻撃がもっとも激しくなるのは「理性=徳=幸福」というソクラテスの等式を挙げるときである。ニーチェ曰く「あらゆるもののなかで最も奇怪で、とりわけ古からのギリシア人のあらゆる本能に反するあの等式(35 頁)」に、ソクラテスが用いる弁証法、イロニーに弱者から強者への復讐の匂いを察知する。ソクラテスに示されるこうした合理的であろうとする態度、すなわち「いかなる犠牲を払っても合理的でであらねばならない」という彼の信念(42)」こそがソクラテスを救世主に仕立て上げたのだ。
「哲学における「理性」」
ニーチェは哲学者が理性を重要視することをなぜここまで憎むのだろうか。それは感覚こそが確かなものを伝えているというのに「感覚は虚偽である」と主張したのが理性であったからだ(47 頁)。理性によって統一性、同一性、持続、実体、原因を設定するようになったからこそわれわれは誤謬に巻き込まれているのだ(50 頁)。啓蒙された世界になるとこうした理性的カテゴリーが経験に由来しないと想定してしまい「はるかより高い世界(52 頁)」に由来すると結論づける。このようにしてニーチェは理性が「仮象」の世界を捏造したことを示す。
「反自然としての道徳」
ニーチェといえば道徳の批判者でもある。道徳における自然主義は生の本能によって支配されているものであるが、これにたいして反自然的な道徳は生の本能に逆らうものである(64 頁)。ニーチェによればその最たるものはキリスト教の道徳である。キリスト教的道徳が欺瞞であること、神を頂点として生を否定するその道徳が堕落し、衰弱し、疲労している生による価値判断、デカダンスによる道徳であることが論じられる。
道徳が、生という観点や配慮を目的を抜きにして、ただひたすら糾弾するものであるなら、それは同情の余地のない決定的な過ちであり、頽廃者の特異体質であり、それこそが語りづくせないほどおびただしい害悪をまきちらしてきたものにほかならない!(68 頁)
「四つの大きな誤謬」
ここでは四つの誤謬が挙げられている。
第一に結果を原因と取り違えることを危険な誤謬であると述べている(69 頁)。ニーチェによれば「これこれをせよ!そうすれば幸福になれる」という定式が挙げられる。事態は逆である。いわゆる「幸福な人間」はある種の行為をせざるをえないし、別の行為を嫌悪する。
第二に原因というものはわかりきったものであるという誤謬である(誤った原因性の誤謬)。たとえばなにかしらの行為の原因として「動機」なるものが意志のうちに発見できることは確かであると思われている。もし発見できなければ行為への責任なるものは存在しないことになる。いわば原因としての意志がここにある。しかし、ここに誤謬がある。意志というものをまず考えてしまい、そこから意識、自我といった内面世界がでっちあげられたのだ。
第三に空想的原因の誤謬である。ここで批判されているのは心身状態が引き起こした観念が、その心身状態の原因であると誤解されることである。あれこれの心身状態にあるという事実を確認するだけでは満足せずそこに動機づけを与えようとしてしまうのである。道徳と宗教においてはこうした誤謬の心理学が満ちている。たとえば善行の意識によって引き起こさる感情は信仰・希望・愛にもとづくとされる。しかしここでも逆転が生じている。希望を抱くことができるのは生理的な感情が豊かになっているからなのである(81 頁)。
第四に自由意志の誤謬である。神学者が自由意志という概念を生み出したのは人々を「責任ある」ものにすることにあるという(82 頁)。罰したい、裁きたいというを目的として意志が捏造されたのである(82)
このようにニーチェの戦略は従来重要視され、神聖視さえされたもの、すなわち「理性」「神」「道徳」を徹底的に批判し貶めることにある。興味深いのはニーチェの語彙や文体に戸惑うことはあるけれども論旨自体はシンプルで明確であることだ。ソクラテスというニーチェの目からみて好ましくない人物が理性をもちいた弁論術で衰退するギリシャ社会で英雄となったこと、そして哲学者は理性を盲信し「神」「道徳」といった仕組みを捏造してきたのだというストーリーは進化心理学的な暴露を思い起こさせるものがある。当初は本書が『ある心理学者の閑居』という標題であったことも踏まえると興味深いであろう(8 頁)。
伝統的な権威もある様々な概念を蹴散らしていくニーチェの弁舌には爽快感があるかもしれないがわれわれはここから何を学ぶことができるだろうか。たしかにニーチェがいうように伝統的な理性、合理性概念が様々な概念を案出し社会にまで「不当にも」適用してしまったことが「生」の活動や豊かさを阻害し萎縮させたということはありえるかもしれない。しかしながらニーチェが理想としていた古代ギリシア的な生き方は彼自身が認めているようにも「異質で流動的(195 頁)」である。そしてわれわれとニーチェとの間にもかなりの壁ができてしまったようにおもえる。ニーチェはもはや古典になってしまった。またニーチェ的な批判が女性差別などの毒を含んでいることも注意しないといけないであろう。この毒の刺激こそが真理の判断であるいう「不都合な真実論」はまさにニーチェが批判したように原因と結果を取り違えているものだからだ。
とはいえニーチェわれわれがよくあろうとすること、正しくあろうとすることに潜む欺瞞、傲慢のようなものを鋭く的確に察知している。その欲求、情念をうまく扱えるかどうか、それを誤魔化したりしないように生きていけるかにニーチェの挑戦を受ける価値があるのである。