今回紹介するのは植原亮『自然主義入門』(勁草書房)である(以下、『本書』と表記し、引用する際には頁数のみを表記する)。
本書の概要は次のようになっている。
「はしがき」では本書の方法論、著述のスタイルが述べられている。本書で問題とするのは「人間の心には何が生まれつき備わっているのか(ii 頁)」という心の基本的な設計に関する問題を主に扱う哲学的自然主義であることが明記される。
「第 1 章 自然主義の輪郭」では科学の方法を用いる哲学的自然主義の輪郭をつかくために「思考ツール」が導入される。思考ツールとはロールズの『正義論』に登場する無知のベールといった抽象的な主題を使う際に議論の焦点を明確にし、うまく思考するための道具のことだ。本章ではノイラートの船や異星人の科学者といった比喩を用いながら人間の心は白紙なのか、あるいは石理のある大理石なのかという問題、また人間の知識はアプリオリなのか経験的なものなのかが論じられる。
「第 2 章 道徳と言語のネイティヴィズム」では道徳が人間に生まれながら備わっているとする見解、「道徳生得説」について論じられる。本章では特定の人や行為について良し悪しを判断する「道徳判断」に注目し、それには人や行為に対する特有の感情が伴うこと、そして自動的に素早く判断されることがその特徴として挙げられる。とくに重要となるのは道徳性徳説への言語的アプローチである。このアプローチによればチョムスキーの普遍文法の理論を援用し、道徳が言語とのアナロジーによって捉えられると主張する。このアプローチは魅力的ではあるものの感情と道徳判断の結びつきについては満足いくものではないと本書では指摘される。
「第 3 章 味わう道徳、学ぶ道徳」では感情こそが道徳判断の中心であるとする「感情主義」が主題となる。たとえば、ジョナサン・ハイトはいくつもの実験で被験者に道徳とは無関係な感情を引き起こされた場合、より否定的な評価が下されることを観察した。ハイトによれば道徳判断の源泉は味覚に擬えられる。味覚に五種類の味蕾があるように道徳判断を生み出す六つの種類の基盤がある。そしてその基盤の説明として「モジュール」という概念が導入される。またもう一つのアプローチとして道徳の経験主義が提案される。このアプローチの論者はハイトのような道徳に特化した感情を持つことに異議を唱えより基本的な感情から道徳を構築しようとする。
「第 4 章 生得的な心は科学する」では現代の生得説の論者がどのように科学的にアプローチしているのかを紹介する。発達心理学の知見によると幼児は生物と人工物を区別するような仕組みが備わっている。プリンツはこのようにあらかじめ特定の領域に応じた心の専門部署をもつ幼児の心を「生得大学」と名付ける。ここで重要となるのはこのプリンツの発想が進化心理学における「モジュール集合体仮説」として徹底されることだ。この仮説によるとわれわれの心は特定の課題の解決に特化した機能を持つ無数のモジュールからできていることになる。数十年前の人間の祖先が繰り返し生じる適応課題に直面して獲得してきたモジュールのおかげで科学的、文化的、制度的な達成が果たせた一方で、現代の課題にはうまく働いていないのではないかという側面も示唆される。
上記のような見解にたいして「第 5 章 経験主義の逆襲」では生得主義への批判が紹介される。たとえば適応環境やモジュールの議論は生得説を支持しないかもしれない。たとえばわれわれの祖先が暮らしていた環境はそれほど安定しておらず似たような適応課題が繰り返したという事態はなかったかもしれない。また、幼児の生物と人工物を区別する能力なども研究者にテストされるまえの経験によって可能になっているかもしれない。経験主義にはまだまだ可能性が残っているのである。
ここまでくると生得説と経験主義のどちらか一つを採用するのは難しいようにおもえる。「第 6 章 ふたつの心とサイボーグ」では二つの考え方の調和が提案される。まず紹介されるのは二重プロセス理論だ。この理論によると人間の心は直観的に働くシステム 1 とシステム 2 とから成り立っている。この理論は生得説と経験主義の優劣について直接語るものではないけれども、両者のアプローチをさらに検討するときに有用である。また、理性に関するイメージも改訂を求められる。理性は個人の内面にあるのではなく外部に存在する公共言語の使用によって獲得されるという見方も可能である。その場合、われわれは理性のような人工的なツールを用いるいわばサイボークとして考えることもできる。
「第 7 章 善き生・工学・道徳的進歩」ではいよいよわれわれはどうあるべきか、なにをすべきかという規範的な領域に踏み込む。まず道徳とはわれわれの生物学的な起源から生じるのだけれども、社会的・文化的学習の影響も受ける「生物-文化的人工物」として考えられる。このように考えることによって規範的問題は工学的問題として捉えることが可能となる。しかし、道徳が人工物であるということは道徳的進歩という理念を否定することになる可能性にも触れられる。
「第 8 章 疑いとア・プリオリ」では認識論の問題が検討される。自然主義的な認識論では知識の可能性を疑う懐疑論の土俵に乗らずに答える戦略が採用される。哲学的な問題にたいする直観をアンケートの手法などで調べる実験哲学などを用いるのも一つの手とされる。
「第 9 章 自然化する哲学」では哲学的自然主義は科学と哲学の結びつきを強く主張するけれども、これは哲学そのものが自然化される積極的な役割を果たさなくなるのではないかという問題について考える。本書は哲学の徹底的な自然化を目指しているので難問とされたり、科学では扱えないとされていた問題も哲学的自然主義によって明らかになったり、問題が解消されたりする可能性が示される。この場合、哲学とは経験的探求を通じてこの世界全体の像に描きこまれるものになるであろう。
上記からも明らかなように本書は従来のあまりにも抽象的であったり、昔の哲学者の本を読んで考えると哲学のイメージを払拭する哲学像を示してくれる。この哲学的自然主義というプロジェクトは今後もさらに進展することが予測される。プラトンが対話篇で描いた熱く議論する哲学者やニーチェのアフォリズムによって構築される文学的な響きはもはや哲学とは無縁のものになっているのだろうか。