人はいつ若くなくなるのだろうか。年をとったり、健康に不安が出てきたり、社会的な責任が増えたりということもあるのだろうけれどもここでは精神的な問題にだけしぼって考えてみたい。重要な手がかりとなるのは「青春」である。かつて若者であった人が成長し社会と向き合い、そして身も心も削れてしまった。もう自分に何も残されてはいないことを知る。それが青春の終わりであり、そして青春の終わりをきちんと悲しむ準備がここに整う。もう若くないのだ、と。
今回紹介するのは村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)である(以下、「本書」と表記し、引用する際には頁数のみ表記する)。『風の歌を聴け』からはじまる「青春 3 部作」とされる一連の作品のラストの作品となっている。本書はタイトルからも想像されるように羊にまつわる話である。とはいえ、羊そのものであるというよりは羊によって象徴されるもの、羊のメタファーをめぐる物語であると言ったほうがよいかもしれない。また、この作品にて初登場となる羊男は今後の村上春樹作品でも頻繁に登場するキャラクターでありいわばマスコット的な役割になっていくなど村上春樹の初期作品群のなかでもかなり村上らしさが漂うものであると思われる。
まずは本書のあらすじを簡単にみていこう。
主人公は『風の歌を聴け』『1973 年のピンボール』と同じ「僕」である。前作と同じく友人とともに会社を経営しているが共同経営者はアルコールに逃げる日々を送っており、妻とは離婚したりという人生だ。物語の転機は友人である「鼠」から送られてきた羊の写真にある。ここに写っている羊はとある組織の重要人物である「先生」が探し続けているものであった。「先生」の秘書はなかば脅迫気味に「僕」に交渉を迫り、会社経営を保証するかわりに羊を探してほしいと言われる。こうして「僕」は素敵な耳を持つ「ガール・フレンド」とともに羊を探すために北海道に訪れることになる。
「冒険」という単語のイメージとは程遠いテンポで平坦に物語は続く。裏の組織が登場したり、羊博士といった謎めいた人物が出てきたりはするけれども、主人公たちの行動は冒険というにはあまりにも平和な聞き込み調査の連続である。まるで RPG のように登場人物から意外なヒントを得ることで物語が進んだりもする。とはいえ、主人公の内面的にはかなりの大冒険であることは間違いない。妻に去られ、会社も辞めることになり、一緒に北海道にまで来てくれた「ガール・フレンド」にも去られ、親友である「鼠」も死んでしまう。散々である。
こうした物語のなかでも楽しく読める箇所が存在する。たとえば「僕」が物語の終着点である鼠の別荘で丁寧にパンや漬物を作り、床を磨き丁寧に掃除するシーンは何度読んでも丁寧で自立した生活の気持ちよさを味あわせてくれる。とはいえこの別荘は外界から隔離された一軒家であり、「ここでは絶えず体を動かしていないと時間に対するまともな感覚がなくなってしまうのだ(161 頁)」という記述も合わせて読むと自己鍛錬的なタフな描写として読むこともできる。
羊とはなにか
この物語において重要なのは羊であることは間違いない。物語の流れではその特別な羊は大陸で羊博士に入り込み、日本に渡りその後は「先生」と呼ばれる男にとりつき、巨大な組織を構築したあとは鼠に入り込んでいる。もちろん、これは実在する羊ではない。なにか羊的なもの、思念的なものである。鼠は羊について次のように語る。
それを言葉で説明することはできない。それはちょうど、あらゆるものを呑み込むるつぼなんだ。気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいぐらいに邪悪なんだ(226-227 頁)。
この表現から羊とは邪悪そのものであると考えることもできよう。その邪悪の達成のために先生に取り付いた羊は巨大な組織を作り上げ、そこに鼠をトップに置こうとしている。こんなストーリーが思いつく。だが、本当にそうだろうか。むしろそんな悪の組織のようなわかりやすい事態が物語のメインなのだろうか。ここで手がかりになるのはその組織が達成されるものについてであろう。鼠が述べるには「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化する(228 頁)」のである。こうした無秩序な世界の到来、すなわち革命の達成を考慮するとむしろ先生の秘書の男が組織の『意志』部分、つまり羊の役割について「自己認識の否定(206 頁)」であると述べたことのほうが真実に近いと思われる。つまり、羊によって意味されているのは「個人が個人であること」が否定される事態である。羊=自己否定という理解の上で、鼠がしようとしたことについて検討してみよう。
鼠の弱さ
物語の終盤、「僕」はついに鼠と出会うことになる。しかし、すでに鼠は死亡しておりそこに現れたのは鼠の幽霊的なものであった。そこで鼠は羊を取り込んだまま死を選んだことを打ち明ける。鼠は羊=自己否定にたいして自らを消し去るという道を選んだ理由はなんだったのだろうか。鼠にとって重要だったのは弱さだった。
「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」(224 頁)
「僕」と「鼠」は鏡写しのような存在であった。そしてその対比は「強さ」と「弱さ」でなされている。「弱さ」は単にそこにあるだけではない。それは自らのなかで腐っていき、自分が腐っていくのも苦しいことが鼠から述べられている(224 頁)。このように記述すると羊という巨大なものにたいしてとてもではないが対抗できるようなものとしては「弱さ」は文字通り弱すぎる。ヒントとなるのはそんな弱さでも鼠は決して否定しきれなかったことだ。
俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや…(228 頁)
ここで鼠が「僕」に語ったことを一言でまとめてしまうのならそれは「青春」である。旅先で感じた夏の憧憬、友人と飲んだビール、こうした記憶、思い出が鼠が鼠であるように留めている。羊なるものがどれほど「個」を否定しようとも、過去は消しされないのだ。他方でこれは弱さであることも否定されない。過去は優しいがわれわれは未来に進まなければならない。この意味で過去なるものは私が「個」であり続けることを保証するが、そこから進むこともできなくなってしまう。
自己否定と青春の相討ち、あるいは喪失
上記にも触れたように「僕」は共同経営者と疎遠になり、妻やガール・フレンドも彼から去ってしまっている。さらに追い打ちをかけるように鼠との別れも経験しなければならない。注意したいのはここで「僕」が直面している事態は単なる他人との別れであるだけではないことだ。この物語は「僕」と「鼠」という二人の人物の物語であると同時に、個人の意識、自己理解の物語でもある。その場合、自己という大きな枠組みのなかに「僕=強さ」と「鼠=弱さ」がある状態として考えることができる。すると鼠が羊を抱いたまま死を選ぶという事態は自己を守るために「弱さ」を代償に「自己を否定するもの」を消し去るという自己の成長として考えることができる。すなわち成長とは青春を捨て去るという決断を下すことなのだ。
誤解を恐れずに具体的に考えてみよう。羊なるものは社会のあちこちに存在する。社会のルール、規律、訓練などはそうした側面も併せ持つ。また自分のアイデンティティを構成すると考えられているもの、たとえば子供の頃からの夢、学生の間に打ち込んだことも「弱さ」の側面をもっている。これらは自己を守るものだが同時に自己を縛るものであるからだ。この場合成長、つまり「羊」に「弱さ」をぶつけることは単なるやけっぱちではない。青春、かつて自分であったものを捨て去ることができるという決断こそが自己の成長の本質であり、そこには成長した自分がある。
もちろん、これには痛みが伴う。うまく悲しむことができないこともあるかもしれない。過去の自分であれ自分を否定したことには間違いないからだ。とはいえいつかは受け入れなければならない。自分がもう若くはないのだということを。本書は成長する痛みを真正面から描いた物語なのである。