民主主義という言葉はあまりにも身近であるのでわれわれはそれについて語る際には色んなものを前提してしまっている。たとえば、民主主義は多数決や選挙とほぼイコールであるといった具合にである。さらには「民主主義はなんとなく良いもの」というイメージがあるので表面的には民主主義には賛成しておくものの、SNS などでは「民主主義は終わった」という諦観を見せることでなにかしらのアピールができるという優れものでもある。漠然としているがなにかよさそうなもの、それが民主主義について語る際になんとなく意識されているものではないか。
今回紹介する宇野重規『民主主義とは何か』(以下、『本書』とし、引用する際には Kindle 版の位置 No.を表記する)は民主主義について再び考えてみることを促す本だ。本書はまず冒頭で三つの問いかけ、すなわち「民主主義とは多数決なのか少数派の意見を尊重するものなのか」、「民主主義は選挙に尽きるのか、あるいはそうではないのか」、「民主主義とは制度なのか、あるいは理念なのか」を投げかけている(位置 No.7−37)。これらの問題は一見答えが自明であるように思えるが答えるのは簡単ではない。それは民主主義という概念がこれらの選択肢をすべて除外するものではなかったという歴史的な事実があるからだ。それゆえ、本書は歴史的なアプローチが採用されることになる。つまり、古代ギリシャにおける民主主義の「誕生」から近代ヨーロッパへの「継承」、自由主義との「結合」、そして二十世紀における「実現」といった点にフォーカスし、その時代に民主主義がどのように営まれ、そして論じられてきたのかが検討される(位置 No.51-57)。ここで重要なのはいずれのキーワードにもカッコがつけられており、その言葉通りの意味ではないことが示唆されている(位置 No.57)。そして本書の一番重要なテーマは次のとおりである。
…全体を貫くキーワードとなるのは「参加と責任のシステム」です。人々が自分たちの社会の問題解決に参加すること、それを通じて、政治権力の責任を厳しく問い直すことを、民主主義にとって不可欠の要素と考えるからです。「民主主義を選び直す」ことは、そのための第一歩なのです。(位置 No.67-69)
以上が本書にて述べられる民主主義について論じるための方針であるが実際に読んでみるとこの方針が達成できているかは明確ではない。たしかに冒頭の問いかけは結論部において答えられており、そのための材料は本文中にある。しかし、実際に読んでいるときにはその問題意識はそれほど前面に出てこず現在述べられている主張が本書全体においてどのような役割が与えられているかを把握しにくい構成になっている。また、「序」における新型コロナへの言及や「第五章 日本の民主主義」についての論述も著者の問題意識を通じて述べられているのだとは思うのだけれども、本書の一貫性に寄与するものではなかったようにおもえる。それゆえ本記事では本書全体を評価するのではなく重要なポイントである「参加と責任のシステム」にしぼってコメントしていきたい。
「第一章 民主主義の「誕生」」では古代ギリシアにおける民主主義の発生が論じられている。本書によれば古代ギリシアにまず着目するのは民主主義の営みが極めて徹底されていからだ(位置 No.353)。そして古代ギリシアの人々は官僚も職業軍人もいないところでふつうの市民たちが国政を担い、決定し、さらには武器をとって戦ったという事情が民主主義の発展に寄与したのだという(位置 No.401)。ここからもわかるように古代ギリシアの人々の政治への参加というのはかなりアクチュアルな出来事だ。彼らにとって政治とはポリスが人々を保護するというモデルではなく、自らが武器をもってポリスを守り、それを維持するという能動的なものなのだ。
こうした状況下において発明された民主主義は次の二つの特徴をもっている。第一に政治においては公共的な議論によって意思決定することが重要であること、第二に公共的な議論よって決定されたことには自発的に従うことである(位置 No.468)。このように開かれた場で議論を行うという透明性の確保、そして自分の意見とは異なるものであってもそうした議論を通じて決定されたものを受け入れることはまさに理想ともいえるものである。
本書では古代ギリシア史家の橋場弦が古代ギリシアの民主主義は「参加と責任のシステム」と呼んだんだことに着目している。定例民会は年に 40 回ほど開催され、参加する負担はけっして軽いものでもないにもかかわらず参加率も高かった。そして、責任の面でも厳しい仕組みになっており、公職を全うしたあとでさえ任期中の会計チェックを受け、きちんと説明できないのなら市民からの告発を免れなかったという。民主主義が参加と責任との両方から成立していることは現代でも重要な意義があると本書は示している(位置 No.657)。
上記で描かれているような政治への参加とその責任システムが歴史上どのような変遷をたどってきたのかが本書のテーマである。たとえば、議院内閣制や代議制民主主義はそうしたシステムを拡張させるものであった(位置 No.1799)。他方でシュンペーターのエリート民主主義やダールによる多元的民主主義についての考えは「参加と責任のシステム」を弱めるものとして理解されている(位置 No.1992-2143)。
個人的な感想としては古代ギリシアの「参加と責任のシステム」はやはり当時であったから可能であったようにおもえるということだ。個人が政治への参加と軍事への参加を両立できた時代であったからこそ当事者意識が醸成されたようにおもえる。現在のような分業の時代においてはそうした仕組みが可能であるかは疑問である。また、「参加」については政治的な仕組みや技術の改良によって拡張されることは可能だとは思うが「責任」については権力への批判という文脈でしか言及されていなかったこともあり古代ギリシアのような市民が引き受けるような責任とは異なる印象を受けた。
このように多少古代ギリシア民主主義への憧憬が強いとはおもうけれども、やはり通史的に検討するうえでは便利なものであるとはおもうのでおすすめしたい。