SHEEP NULL

倫理学の回り道、あるいは王道 - 佐藤岳詩『倫理の問題とは何か』雑感 -

2021年09月27日

書評
佐藤岳詩
B092CM8P5N

Amazon リンク

 倫理や道徳という言葉の胡散臭さとは裏腹に道徳や倫理について論じることそれ自体には違和感がなくなってきたようにおもわれる。たとえば、サンデルの『これからの「正義」の話をしよう 』などで知られる「トロリー問題」は 10 年前とは比べ物にならないほど人々に知られるようになっている。Twitter などでは「トロリー問題」について功利主義的なスタンスをとったり、そもそもの問題を否定したり、あるいはいかに面白いことを言えるかという大喜利をしたりする光景は珍しくない。彼ら・彼女らが真剣に議論をしているかはともかくとして「われわれは道徳的に何をすべきか」を議論するのが倫理学の一つの仕事であるというのはある程度前提されているようにみえる。また、ジョシュア・グリーンは『モラル・トライブズ』において「トロリー問題」について考えている人々の脳の状態を検討するなど自然科学などの手段を用いて道徳について考えようとしている。

 上記のように道徳、倫理の問題とは「われわれは道徳的に何をすべきか」をテーマとし、それにたいするアプローチは自然科学によるものも存在するといった学問的な進歩を遂げていると考えられる。しかし、道徳、倫理の問題はそれほどシンプルなものなのだろうか。「われわれは道徳的に何をなすべきか」における「道徳的に」とはそもそもどういう意味なのだろうか。そして「何をなすべきか」とあるように倫理や道徳の問題はわれわれが行う決定や行為についてだけの問題とあるようにおもわれるが本当にそうだろうか。

 今回紹介する佐藤岳詩『倫理の問題とは何か」(光文社新書)[以下、「本書」と表記し引用は頁数のみ記す]はまさに倫理の問題が複雑であり豊かな内容をもっていることを教えてくれる好著である。佐藤は『メタ倫理学入門』を執筆していることからもわかるようにメタ倫理、すなわち倫理とはそもそもなにかについて考える分野についての専門家である。『メタ倫理学入門』はメタ倫理についてのわかりやすい入門書であったが、学術書でもあるので形式的、概念的な枠組みを重要視した構成になっていた。他方で本書は語りかけるような文体で執筆され、ポスト・トゥルースや BLM の問題について触れながら倫理、道徳といった問題のアクチュアルさを描いている。

 さらに、本書には倫理学の教科書としてオリジナルな箇所も存在する。本書によれば道徳や倫理を理解する基準の候補として次の四つの基準があるのだという(96 頁)。

  • 重要性基準:私たちの生にとって重要で深刻なものを示すもの
  • 理想像基準:私たちにとっての理想像を示すものが倫理・道徳
  • 行為基準:意図に基づいた振る舞いを示すものが倫理・道徳
  • 見方基準:倫理・道徳とは世界の見方そのもの

 本書によると多くの倫理は重要性基準、理想像基準で説明されるが、より幅広い観点から検討してみると行為全般に関わる問題であったり、世界の見方そのものであると言うこともできる。本書はどの基準が正解かを明確にするものではないが、著者の見解は「見方基準」を採用するが、そうすることで他の三つの基準を除外するものではなく、むしろそれらの基準がもっている重要さを見出すことができるという立場である(113 頁)。本書はこうした四つの基準を念頭に置きながらメタ倫理の考え方を紹介、検討していく点に独自性がある。

 簡単に内容を紹介しておこう。第一章では上記の基準が導入され、倫理の問題について考える際のポイントが紹介される。第二章では「倫理の問題には正解があるか」をテーマになぜ客観的な正解があるのか、あるいはないと考えてしまうのかを検討している。第三章では倫理の問題に正解を求める態度を批判する人間という存在の脆弱性に訴えるアプローチや、それでもなお真実にたいする態度を必要とするアプローチを紹介する。第四章では「べき」や「良い」といった規範的な言葉についての見解が紹介される。そこでは「良い」、「悪い」という単語のもつ一貫性への要求や「なぜその行為をするのかについての」理由はわれわれの内面にあるのか、それとも世界の側にあるのかといった論争が解説されている。第五章ではここまでの議論をふまえたうえで倫理の問題を考える際に生じるひっかかり、人とのかかわり合いといったこれまでの倫理学ではあまり触れてこなかった事態や現象について言及される。こうした日常の揺らぎをきっかけとして倫理の問題があらわれてくるというのが本書の主張である。

 このように本書は「道徳」、「倫理」といった言葉で示されているものの複雑さ、そして倫理の問題というものが単に行為の問題に尽きないということを示してくれる。「正しい行為とはなにか」が倫理学の教科書ではおもに扱われることを考慮すると本書が解説するものはそうした王道とは異なる脇道、回り道、裏道のようにおもえるかもしれない。もしかすると、現在普及し、他の自然科学や社会科学でも扱えるようになった倫理の問題とは異なる本書の見解は倫理学という学問の進歩に逆行していると考えられるかもしれない。しかし、そうではないと私は思いたい。それなりに生きていると遭遇する道徳の問題はそもそも問題それ自体がスッキリしていないし、われわれはどうすべきなのか答えがでないばかりか、そうした問題に直面するだけでいろんな反応や感情を引き起こしてしまう。倫理学がこうしたまさにいまここで起きているものを捉えることができないのだとしたらそこからいくら「進歩」しようとも意味がないのだ。本書は倫理の問題とは何かというスタート地点を再設定し、そこから将来あらわれるかもしれない新たな王道を見定めるためのガイドブックとしておすすめできる。

B092CM8P5N

Amazon リンク


Profile picture

© 2022 SHEEP NULL