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「不毛な」伝達への試み - 村上春樹『風の歌を聴け』雑感 -

2021年07月26日

書評
村上春樹
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 発信しやすい世界になったように思う。2021 年の現在、われわれはパソコンやスマートフォンなどを用いて文字も画像も発信できる世界を生きている。だがこの一方通行の発信がじっさいに誰かに受け取られ、そこに伝達、すなわちコミュニケーションが成立しているかどうかはそれほど確かではないのかもしれない。コミュニケーションが成立しないこと、伝達が行き違うことは仕事でも私生活でも生じえることは自らの人生経験を振り返れば容易に見いだせるであろう。とはいえ、もしかしたらこのコミュニケーションをめぐる問題はそれほど現代では重要ではないのかもしれない。というのも、現代は SNS を中心とした共有(シェア)の時代であり、話題やトピックが共有できる人々とそうではない人々という分断が半ばあきらめのもとに放置されている。われわれは他者への伝達などという苦労をわざわざしなくてもよいのではないか。

文章を書くことの罠(存在証明と空虚さ)

 こうした伝達の不毛さについて考える際に一つのヒントとなるかもしれないのが村上春樹によるデビュー作、『風の歌を聴け』(以下、『風の』で表記。引用は村上春樹『風の歌を聴け』(講談社文庫)より行う)だ。簡単なあらすじを記しておくと、主人公の「僕」が故郷の町に帰り、友人である「鼠」と語り、とある経緯で知り合った女性と親しくなっていく夏の日々を描くものだ。このように一見シンプルなあらすじではあるけれども、実際に読んでみるとその印象は大きく異なる。『風の』は 40 節の断片から成り立っているが時系列に並んでいるわけではなく、話は飛び飛びになったり、一見ストーリーとは関係のない少年時代のエピソードや小説からの引用が挿入されていたりする。まるで伝達することを拒否しているかのように。

 しかし、本当にそうなのだろうか。ここで着目したいのは『風の』が「文章を書くことについての小説である」ということだ。

結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。(『風の』8 頁)

文章を書くことはまず自分に向かう行為である。だが自分のことを正直に語るのは難しい。たとえよく知ってる自分のことについてであっても書かれた文章はすでに自分とは異なるものであるからだ。文章を書くことによって自分とそれ以外のものが区別される。それは架空の作家であるデレク・ハートフィールドの文章からの引用という形で次のように書かれている。

文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。(『風の』10 頁)

だが、そうしたものさしでは測りきれない深い淵が認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間にあるとも言われる(『風の』12 頁)。ここで文章を書くということは常に失敗するおそれがあるということ、もしかしたら誰かに何かを伝えることなど不可能なのではないかということが示唆されている。

伝達が不可能であることは自分の存在への不安を掻き立てることになる。「僕」はあまりにも無口であったため医者にかかることになる。そこで医者は文明とは伝達のことであり、もしなにかを表現できなければなにも存在しないことと同じなのだと「僕」に語る(村上『風の』30-31 頁)語らねばならない、書かねばならない、でなければ存在しないも同然なのだ。こうした強迫観念。

 不安はむしろ文章を書くことによって累積される側面もあるのかもしれない。「僕」は存在理由をテーマにした小説を書こうとおもいつく。そこで彼はすべての物事を数値に置き換えるという性癖にとりつかれることになる。電車の乗客や階段の段数、吸った煙草の本数まで数えてみたものの次の結論にたどり着く。

その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。(村上『風の』96 頁)

 もちろんそんな試みが叶うわけもなく彼は自分が一人ぼっちであるということを見出すことになる。文章をいくら積み重ねてみたところで他人にも何も伝わらないのだ。しかも最悪なことに文章を書くことそれ自体は意味を見出しやすい(村上『風の』12 頁)。「僕」がやったような数値に置き換えることは現代で「バズる」という現象における数字に置き換えられるかもしれない。そうした数字に意味がないことはこの小説が書かれた時代よりも SNS が発達した社会である現代のほうが実感されることであろう。言葉や文章は積み重ねるほど自分なるものが空虚なものとなっていく。

不毛さのために書く

それでも文章を書くこと、伝達することに救いはあるのか。文章を書くことの意義はどこに見出されるのか。ここでもハートフィールドの次のような言葉が引用されている。

小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるものでなくてはならないというのが彼[=ハートフィールド]の持論であったし、その正確さは量に比例すると彼は考えていたからだ。(村上『風の』123 頁)

この箇所だけ読むとハートフィールドの文章論は「僕」とたいして変わらない。しかし、ハートフィールドはそこだけでは終わらなかった。彼はトルストイの『戦争と平和』について量は申し分ないが「宇宙の観念」が欠けており、それは「不毛さ」であるとも述べている(村上『風の』124 頁)。虚構の作家に文章を書くことにおいて大事なのは不毛さであると語らせるという複雑に入り組んだ状況が提示される。まるで文章を書いて伝わることなんて虚構だし、不毛なんだと言わんばかりに。

しかし、不毛さはけっしてネガティブなものではない。文章を書くことの救いは「鼠」に求められている。「鼠」は旅行に行った際に見つけた古墳について次のように語る。 「そいつはあまりに大きすぎた。巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。 」(村上『風の』118 頁) 「俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包みこまれちまうような感覚さ。つまりね、蟬や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。」(村上『風の』118-119 頁)

ここに宇宙の観念、すなわち不毛さがある。しかし、「鼠」は次のようにも言うのだ。

「蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。(村上 『風の』119 頁)

物事は積み重なると本質が変わる。文章も例外ではない。自分のために書かれた文章は他人への伝達を望みながらも決して届くことはなく深い淀みに落ちていく。そこに溜まった文章は「小説」なんて言われるかもしれない。不思議なことに伝達されない文章の塊は宇宙的な不毛さを伴い、宇宙的なあらゆるもののために書かれたものになる。

自分という存在の発見

 重要なのは文章を書くことそれ自体が不毛ではないということだ。文章を書くことが結果的に不毛な事態に巻き込まれているというほうが正確なのかもしれない。文章を書くことによって区分されようとしていた自己と自己をとりまくもののが一体化されることになる。ここには不毛さの慰めがあるのかもしれない。不毛さの観念は伝達せねばならないという強迫観念や自分の存在理由を蝉、蛙、風と等しいものにする。けれど全てが無になるのではない。不毛さのためにわれわれは何かを書けるかもしれないという希望は残される。

 「他者への伝達などしなくてもよいのではないか」、冒頭に書いた問いかけにたいして伝達は常に失敗するのだからノーと答えるしかないのかもしれない。だが、人間はそうした伝達を求めてしまう存在でもある。何かを書いてしまう存在である。そうした文章が誰かに届くことはなくても、積もってしまえば、それは常に宇宙的なものについて書かれているものになる。誰かに届くことはないが、何かについて書くことはできる。そしていつか書かれた文章によって自分なるものを見出すことができるかもしれない。自分が伝達するのではない。伝達しようとすることで自分を発見する。この文章もそうした願いのもとに書かれることになったのだ。

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